今回から始まりました新企画「恵比寿な人たち」
毎回恵比寿に縁のある恵比寿人にインタビューを行い、昔の恵比寿のお話や
今の恵比寿のお話をアーカイブしていく企画です。
首都圏フリーペーパー「ココカラ」と「恵比寿新聞」そしてこの企画に賛同して
頂いた「サッポロホールディングス株式会社」様のご協力でこの企画が実現できました。
第一回目の「恵比寿な人たち」のゲストは。日本初女性報道カメラマンの
笹本恒子さん
笹本恒子
1914年9月生まれの99歳。日本女性報道カメラマン第一号として知られる。生まれも長者丸出身で小学校も恵比寿ガーデンプレイスの目の前にある加計塚小学校が出身。激動の戦前戦後を報道カメラマンとして駆け抜け現在も現役の報道カメラマンジャーナリスト。
御年99歳のスーパーガール
笹本恒子さんは1914年生まれの99歳。来年なんと100歳のスーパーガール!!!
恵比寿生まれの恵比寿育ち。まさに恵比寿を古くから知るスーパーガールなのです。
笹本恒子さんの半生についてはフリーペーパー「ココカラ」にビッシリ乗っておりますので
是非そちらをご覧ください。今回恵比寿新聞ではココカラ本誌にはない恵比寿のお話や
笹本さんより昔の恵比寿のお話を聞いた結果大変重要な事がわかったというスクープ
的な事実を公開したいと思います。これはかなりのスクープだと思います。
笹本恒子さんは現在の「長者丸」と言う場所に生まれました。
現在もその名の通り「長者の住むお屋敷町」として有名なこの地。むかしもお屋敷が
たくさんあり皇族関連の方達も住んでらっしゃったそうです。
大正12年。1923年。恒子さん9歳の時に関東大震災が起きます。当時の恵比寿の街は
大火事に見舞われ甚大な被害だったそうです。地震のあった日に恒子さんの
お父さんは手ぬぐいを片っ端から集めてその翌朝お手伝いさんと一緒に加計塚学校に
持って行かせたそうです。その日の朝礼で「笹本君の御実家から手ぬぐいを寄付してもらった」
「みんな大切に使うように」と校長先生が仰られたそうで、その日は皆家が焼け顔を拭くものも
なければ大変な時で。皆非常に助かったそうです。その時恒子さんは父の奉仕の心をとても
誇りに思ったそうです。
その他にも恒子さんのお父様の晩話があり。現在は走っていませんが昔は都電が
走っており恒子さんのご自宅は「エビス長者丸」という駅の前に有ったそうです。
恒子さんのお父さんはいつも雨が降ると家の軒先に「番傘」をたくさん用意した
そうです。それも結構上等な番傘を用意して急な雨に困る方にお貸ししていた
そうです。上等な傘なのでかえって来ない傘もしばしば。お礼を言って返してく
出さる方も。恒子さんのお父様は非常に「奉仕」の方だったそうです。
元々写真より絵を書く事が大好きだった笹本恒子さん。
日本初の女性報道カメラマンとして活躍する以前は絵画に没頭。お父さんに内緒で
絵画教室に通うなどされていました。そんな恒子さんから意外なお話を聞く事になりました。
むかしはね。この一帯。伊達って言われていた場所は絵描きさんがたくさん住んでいたのよ。ほら、あの岡田三郎助さんとか北蓮蔵さんとか。ものすごく有名な人がたくさん住んでいたのごぞんじ?
実は恵比寿新聞の親戚の家系もこの「伊達町(現在の恵比寿3丁目)」出身でいわゆる
曾御爺様が有名な画家だったという話を聞いており、当時は「伊達跡画家村」なんて
言われているという事を耳にしたことがあったんです。そして色々と古い文献を調べていると
竹久夢二や日本のグラフィックデザイナーの元祖だと言われた杉浦非水などもこの伊達跡画家村に住んでいたという事実がわかったんです。
下記の地図にどんな人たちが住んでいたか書いてみました。
凄いですねよね!!!
恒子さんの発言から実は既に1ヵ月。恵比寿新聞はこの恒子さんの助言により「伊達跡画家村」
について調べる事になりました。現在、伊達跡画家村に自宅があった洋画家「加藤静児」の
御子息の方から貴重な昭和12年6月20日に完成した「加藤邸」のアトリエの書籍をお借りしました。
加藤静児
明治20年6月1日愛知県海部郡に生まれ、明治43年東京美術学校洋画科卒業、在学中第3回文展に「山かげ」「元学習院」「早春」を出してより連年作品を発表、その間大正9年4月より11年7月にかけて外遊した。大正12年光風会々員となり、昭和5年には帝展無鑑査に推された。昭和11年招待展出品の「奥日光の秋」は文部省買上となり、本年度文展に出品した「秋晴」も宮内省買上となったところであった。文展以外に光風会に作品を陳べ、そのほか屡々個展を開いていた。又愛知社同人として郷土芸術振興に尽力するところがあった。
明治から昭和にかけて活躍された洋画家で文部省や宮内省にも絵を下しており
自動車会社がパトロンとして加藤氏を支えていたそうです。
当時としては非常にモダンな自宅兼アトリエ。建物の建築記念に発刊された冊子で
中には岡田三郎助の一番弟子の「辻永(つじひさし)」も冊子にコメントを残している。
元々この「伊達跡」とは旧宇和島藩伊達の下屋敷があり、この由来が「伊達町」となり
この地は「伊達」と言われるようになった。詳しくは「旧「伊達町」と宇和島藩の関わり」
いわゆる現在の「恵比寿三丁目」が「伊達町」に当たります。
場所はガーデンプレイスの裏!
江戸が落ち東京になった時からこの地は明治から岡田三郎助が中心となり画家が住み始める
事となる。当時岡田と黒田清輝は親交があり、この地に近い黒田との交友を冷めさせない為
岡田三郎助はこの地に住んだという謂れがありますが、実は「港区」と「渋谷」では税金が
違い、渋谷の方が安くそして便利も良かったという事からこの地が画家が住むきっかけに
なったという話があります。
と、まぁ、笹本恒子さんの一声でこんな凄い発見があるなんて「恵比寿な人たち」
企画第一回目から大波乱でございます。そんな伊達跡画家村の活況な時期をリアルタイムで
笹本恒子さんが見ていたなんてなんとノスタルジーな。この「伊達跡画家村」についてはやはり
プロの方とお調べしようと思いますのでまた進展があればお知らせします。
とにかく!今も昔もクリエイターが活躍する街「恵比寿」だったんですね!!!超感激!!!
次回は誰なんでしょうね。2月に公開です!