かれこれ気づけば
恵比寿の歴史を調べ始めて
はや7年が過ぎようとしています。
早いもんだな~・・・・
今思えば恐ろしいのですが始めた当初は
アポなしで古いお宅を見つけては
玄関の呼び鈴を「ピンポン」と押し
「恵比寿新聞です。古い写真ありますか?」
と聞くと「うちはもう○○新聞取ってるから。」
とか
「古新聞はもう捨てたよ」って新聞屋さんや
廃品回収の方によく間違えられたな~と。
今となっては良い思い出なんですが。
新手の押し売り営業マンもタジタジの
アポなし突撃をしておりました。
そもそもなぜ恵比寿の歴史を
調べることになったのか。
元々そういうのが好きだった
というのもあるのですが
調べて行くうちに戦中の恵比寿は
空襲で焼け野原になったという
悲しい出来事が今も
語り継がれるわけでもなく
徐々に風化している事に気づき
「記憶を記録に残そう」と
思いずっと記録として書き綴っています。
そして新しい開発で元々住んでいた方が
恵比寿を離れる事が多く、聞けるうちに
聞いておきたいと思ったのがきっかけです。
戦後70年。
戦争を体験してらっしゃる方の
年齢は既に80歳~90歳と
ご高齢で、この「戦争体験」を
聞けるのは我々が最後の世代だと
言われています。
そんな空襲で色々と記録が焼失した恵比寿。
でも人情だけはずっと残っておりまして
恵比寿の地元の先輩方に協力していただき
結構な数の戦前戦後の昔の写真が集まっていた。
恵比寿駅がまだ木造だった写真や
小学校の旧校舎。舗装されていない道。
もう既に存在しないお店の写真などなど。
しかしそんな恵比寿の歴史を調べるうえで
恵比寿新聞がずっと探していた写真。
「ヱビスビールを運ぶ馬」の写真。
ここ恵比寿は明治時代からヱビスビールの工場があり、
ビールの名前が由来し「恵比寿」になった街である。
この企画を同時連載しているフリーペーパー
「ココカラ」の連載第一号でインタビューした
日本初の女性報道カメラマンの
御年102歳笹本恒子さんの証言では
「昔はこの辺は馬屋がいっぱいあってね」
などビールを運ぶ為の馬が沢山生活しており、
恵比寿や広尾には「牧場」まであったと聞いています。
でも「馬」の写真が全然出てこなかったのです。
前談でも触れましたが
空襲でこの辺(恵比寿1丁目~4丁目)
一帯は焼け野原になって写真はすべて燃えてしまった
という事から昔の写真が少ないという歴史がある。
それ以前に昔はフィルムカメラだったので
馬よりも人を映している物が大半。
とある出会いがきっかけで
毎年9月になると恵比寿新聞は
「氷川神社例大祭」というこの町で
長く続く神輿祭りの取材を欠かさず行っている。
2015年は「元広尾」という広尾を
中心とした祭礼会に密着した時の事。
声をかけてくれたのは元々恵比寿4丁目、
ビールを運ぶ坂であった通称「ビール坂」に
昔から住まわれていた長澤史記さん。
そして昔から恵比寿に住まわれている小野瀬康さん。
「恵比寿新聞さん。昔の写真集めてるんだって?」
「うちに写真があるから今度持ってきてあげようか?」
というお話だった。後日その写真を見せていただく事に。
まずは小野瀬さんからご提供頂いた写真。
これは以前恵比寿新聞でも取り上げた
渋谷氷川神社に残る幻と言われた
宮神輿の写真。今から75年前に一度だけ
宮神輿が担がれたという話がありました。
小野瀬さんのお話によると年代は不明。
写真だけが残されている状態で
それ以上の事はわからないとの事でした。
時代背景はおそらくですが
先ほども触れたように
いろんな方の証言ですが
丁度75年前の宮神輿が担がれたという
話がありましたので多分その時の
写真ではなかろうかと推測します。
とにもかくにも親子3代にわたり
待ち続けられていた「宮神輿」の
平成に入ってからの渡御は
恵比寿の地元に住む方には
とても大きなニュースになりました。
もう一つ小野瀬さんからご提供頂いた
同じ日に撮られた写真がありました。
馬の写真ですね。もしやヱビスビールを
運んでいた馬なのか!?
あれ?
皆さん右奥にご注目。
よく観るとこの写真の奥の看板に
「ヒロオ銀映座」という看板があると思います。
広尾銀映座は現在の広尾「多田スポーツ」の
横に有った映画館の事でして、
拡大してみてみると映画の上映告知が
書かれた看板でして、映画の名前を見てみると
「江戸へ百七十里」という文字があります。
調べてみるとこの「江戸へ百七十里」が
公開された年が1962年という事で
今から数えると丁度「54年前」。
54年前に宮神輿が出ていたんですね
しかし、54年前にこの宮神輿が
担がれたかどうかは不明でして
実際には2013年から数えて75年前
2016年ですと78年前には担がれている
という記録はあるそうです。
という事で小野瀬さんが年代不明
と仰ってたこの写真は1962年に撮られた
写真という事が判明しました。
補足
1938年(昭和13年)11月3日に当時の渋谷氷川神社氏子・町会の寄付によって社殿が大改修され遷座祭の際に担がれたのが今から丁度78年前という事で、この話が「75年前に宮神輿が担がた」という話になったとされる(2013年9月当時)尚、54年前の1962年に担がれたかは不明。牛で引くだけの行事だった可能性もあります。
この辺(恵比寿・広尾)は沢山の
荷物を運ぶ為の馬や牛が生活していたそうで
先日亡くなられた小林防火服会長
小林虎太郎さんからの証言でも
現在の恵比寿西口ロータリーにある
三井住友銀行のあたりが
永峰牧場という牧場だったり、
恵比寿新橋商店街の石田会長の証言では
恵比寿1丁目のあいおい損保前の
ファミリーマートが昔は
金木牧場という名前の牧場だったとか。
その他にも広尾のホームワークという
サンドイッチやさん辺りが牧場だった。
ずっと探していた写真に巡り合えた
そして長澤さんから提供いただいた
写真を見せていただく事に。
その写真に写るの光景は
ずっと恵比寿新聞が探し求めていた
「ヱビスビールを運ぶ馬」の写真でした。
長澤さんのお話によると
お爺さまは運搬業を営んでいたそうな。
もちろん当時の動力は「馬」「牛」。
この写真は昭和24年11月。
恵比寿四丁目の長澤さんのお宅前。
いわゆるビール坂で撮った写真。
東京都産業振興共進会主催の
馬の品評会で受賞した記念に
撮影されたものだそうです。
左から長澤さんの祖母「コマ」さん。
真ん中が長澤さんの祖父であり
馬の馬主であった「安田松太郎」さん。
一番左側の方が馬番頭の従業員さんだそうです。
そこであるところに目が行ってしまった。
「馬越」の半纏
馬の左横に映ってらっしゃる
この地域の馬番頭の従業員さんが
着ている半纏に注目してもらいたい。
「馬越」の文字が入っている。
なぜこんな興奮しているのか。
実はヱビスビールを生産するサッポロビールの
前身でもある大日本麦酒の初代社長。
「東洋のビール王」と呼ばれた
「馬越恭平」の「馬越」ではないか。
実はこの馬越恭平。
「PRのパイオニア」「イベントプロモーターの元祖」
とも言われておりまして、例えば当時
ヱビスビールが新年の初出荷の際には、
社員は社名を染め抜いた半纏を洋服の上にはおり、
恵比寿の街を威勢良く練り歩いたという「商品PR」を
既に明治時代に行っていたのです。
これが人気を呼び、同時にヱビスビールの名も
知れ渡っていったという記録も残されています。
もしや・・この半纏が「馬越恭平」の半纏だとすれば。
馬越恭平は恵比寿の町にどういう生業を作っていたのか?
7年かけて調べていた恵比寿の歴史に大きな
「宿題」ができました。次号の「恵比寿な人たち」では
そんな馬越恭平がどんな人物だったのか?
次号につづく・・・・
(次号は4月フリーペーパーココカラにて)