連続時代小説「恵太の物語」第一話「ビール坂」

シェア・送る


作:伊達みなみ

正午を告げるビール会社のサイレンが、

粘っこい真夏の空気を底のほうからこねあげるようにうなり始めた。

小学校とビール会社の間には、大人と子供の世界を分ける緩衝地帯のように、

細長い空き地が横たわる。空き地には空き瓶が詰まった

ビールケースが土埃にまみれて積み上げられている。

何段にも危なげに積み重なったケースの下の地面には、ビールの王冠が転がり、

そのうちのひとつにぎらりとした真昼の太陽が反射して、

教室の黒板のちょうど中央部分にちらちらと丸い光を映し出している。

2階の南隅にある2年1組の教室ではさっきのサイレンの音であとわずかで

土曜日の4時間目の授業が終わることを知った子供たちが落ち着きをなくし始めていた。

板書をする先生の頭上をめがけでもいるような光のいたずらに、大方の子供が夢中になり、

くすくすと笑いが漏れている。

だが、窓際の一番後ろの席に座っている新藤恵太の目だけは、

さきほどから窓の外の一点にくぎ付けになっていた。

恵太の視線の先にいるのは、茶色い毛並みをした雑種の仔犬だった。

耳がまだ半分たれていて、4本の足元だけが白い。体育館の陰の方から、

ひょっこりと現れて、今は花壇を抜けて用務員室の前の水汲み場にいる。

誰もいない校庭を楽しむように、くったくなく冒険を続けているように見える。

まだ教室の誰も仔犬の存在には気付いていない。

その証拠に窓の外を見ているのは恵太だけで、

皆はまださきほどからの光のいたずらに夢中になっていて、

一番後ろの恵太の席からは皆の黒い後頭部が全部揃って同じ方向を向いているのがよくわかった。

窓の外に目を戻すと、用務員室のガラス戸がいきなり大きな音を立てて開き、

用務員の榊さんが木箱を抱えてでてきた。仔犬は一瞬びっくりしたように半歩横に飛びのいたが、

よほど肝っ玉が据わった犬なのか、小さすぎて怖いもの知らずなのか、

榊さんの足元でパタパタと人懐こく尾を振っている。

榊さんは頑丈そうな黒い自転車の荷台に木箱をくくりつけながら、

仔犬に何か話しかけているようだったが、恵太にはその内容は聞こえない。

榊さんがにこにこと笑い、扉の奥の暗がりに向かって何かを言っている。

開け放したガラス戸の奥から、ふだんは「太ったほうのおばさん」と呼ばれている

村田さんが白い開襟のブラウスを腕まくりしながら出てきた。

仔犬は村田さんにも尾を振っている。

村田さんはひょいと仔犬を抱き上げると、しばらくいじくりまわしていたが、

結局、仔犬を抱いたまま用務員室の中に消えていった。

榊さんは開いたままのガラス扉の中に向かってひとことふたこと何か告げると自転車に

またがり、ゆるゆると自転車をこぎながら通用門から外に出て行った。

村田さんも榊さんも仔犬も消えてしまった校庭は、またしんと静まり返って乾ききって

白っちゃけた土に校舎の影が短く落ちているだけになった。

なぜだか急に家の茶の間の懐かしい匂いがしてきたような気がして、恵太は我に返った。

そうっと前を向くと、担任の滝口先生は恵太の余所見には気付いていなかったらしく、

教卓の上に置いた教科書を閉じて出席簿に重ねてトントンと揃えながら、

このまま帰りの学活をやってしまうこと、

日直は前に出て今日の反省会をしなさい、などと話していた。

帰りの学活はまたもやうんざりだった。2年生になってから転校してきた松本百合子が前に出て、

男子が掃除をさぼるだの、給食着を洗ってこない人がいるなどをキンキンと響く声で発表していた。

松本百合子は、長い顔にそばかすがちらばって、

きっちりと揃えたおかっぱ頭にぺらぺらとよく動く大きな口が、

テレビで見た「日本の猿」の顔にそっくりだった。

そんなことをからかったら、帰りの学活で必ず先生に言いつけるだろうけれど、

一番仲良しの杉本信二に言ったらすごく笑うだろうなあ、

と恵太は百合子の大口を見ながら考えていた。

やっと百合子の一人舞台が終わって

俎上に上げられた男子が形ばかりの「反省」をしたところで2年1組と恵太は開放された。

机の上に椅子を重ねてガラガラと教室の一番後ろにずらすと、

今日はどこの掃除当番にあたっていない恵太は、一直線に用務員室に向かった。

扉の前でちょっと息を整えてから、そっとガラス戸を引いた。

立て付けがあまりよくない扉は、

せっかくそっと開けたのにがたがたと大きな音を立ててしまい、

いつもは慣れているその音に、なぜか恵太の肩はびくっと持ち上がってしまった。

ランドセルにつっこんだ竹の定規もカタっと鳴った。

用務員室は扉を開けるとそのまま土間になっていて、

左側が一段高く、畳の和室になっている。土間のほうには流しや

大きなガスコンロが並び、冬の掃除のときはそこで大きなやかんに

沸かしたお湯をバケツに分けてもらうことができた。

和室との境目には、縁側のような木が一段しつらえてあって、

そこに腰掛けて向こう側に体をねじって何かをしていた村田さんが振り向いた。

「どうしたの?竹ぼうき?じょうろ?」

「ああ、そうじゃなくて、えーと掃除当番じゃないんです」

「ああ、何か壊れちゃった?榊のおじさんが出かけているから今すぐには直せないよ」

「ううん・・」

村田さんのもりもりした背中越しに向こう側をのぞくと、

そこにはさきほどの仔犬が鰹節をかけたご飯を入れた

給食のお下がりのアルミ食器に顔を突っ込んでいるところだった。

「犬なんだけど猫まんま。これしかないんだからしょうがないよね」

「それ、用務員室の犬なんですか?」

「まさか。さっき榊さんが校庭に入ってるのを見つけたところ。あとで誰かもらってくれる人を探さないとね。先生たちにも頼んでみるつもりだけど、校庭をうろうろされてたら、犬が怖い人だっているからね。今はここでおとなしくしてもらってるってわけよ」

「ふうん」

「ああ、わかった。あんた、この犬が欲しくて、だからここへすっ飛んできたんでしょう。でもだめよ、こういう生き物をどうこうするっていうのは、お母さんとかお父さんとか大人に相談しないとだめ。」

「じゃあ、誰ももらわなかったら、その犬はどうなるの?」

「おばさんも飼ってやりたいけどねえ、アパートだしねえ。保健所に持っていくしかないけど、まあ、学校は広いから誰か一人くらい貰い手はいるでしょうよ」

おばさんは、保健所などという恐ろしい言葉をしゃべっている割には、

けろりと笑っていた。それほど心配はしていないらしい。

でも、恵太は、小さいころ近所の家の雌犬が産んだ仔犬が5匹、

まだ目も開かないうちに、

みかんの空き箱に入れられて「保健所」につれていかれたのを知っている。

猫のようにきゅーきゅーと鳴いていた仔犬が保健所でどうなったのか、も恵太にはわかっている。

「とにかく連れて帰りたいなんていう相談にはおばさんは乗れないよ。あんたのお母さんに怒られちまうよ。それに連れて帰って、はい、だめでした、どこかに捨てておいで、なんてことになったら、よっぽどこの仔犬が可愛そうだと思わないかい」

恵太の心の中をお見通しのようにどんどん先をしゃべってしまう村田さんの手元で、

仔犬は、猫まんまをほとんど食べ終え、前足をぺろぺろとなめていた。

「じゃあ、お母さんにちゃんと聞いてくるから。それまで待ってて。それならいい?」

「お母さんには迷惑なだけだと思うけどねえ、おばさんは。まあ、2時くらいまではおばさんたちも帰らないから。でもあんたが戻ってくるまでに貰い手がついちゃったらしょうがないよ」

こくりとうなずいて、恵太は用務員室から飛び出した。

学校の門は登校のときは正門と、裏門と呼ばれる校舎の裏手の門しか開いていないが、

下校時には、さっき榊さんが自転車で抜けて行った通用門も開かれて、

子供たちをどんどんと家へ押し返している。

通用門の手前には、夏枯れしてやる気のなさそうな花壇と百葉箱、

そしてウサギや鶏の飼育小屋が並んでいた。

恵太は飼育小屋の角にぶつかりそうになりながら、

誰かの「いーけないんだ!」という声を背中に受けながら花壇を走り抜けた。

なるべく最短距離で校舎から通用門を抜け、ビール坂に踊りでた。

ビール坂は、その名前のとおり、

ビール会社のトラックが会社でできたビールを満杯にして走り降りていく坂である。

本当の名前は他にあるらしいが、近所では誰も使わない。

坂は会社からの一方通行で、だから通るトラックはいつも満タンのビール瓶を積んでおり、

重量を帯びたトラックは、大人でもたじろぐような轟音をたてて坂を下っていく。

けれど、今日は土曜日だから会社も半ドンだし、

なんといっても真夏の昼下がりだから、坂道はくったりと静まっていた。

シェア・送る