物理学者の湯川秀樹が日本人で初めて
ノーベル賞を受賞した1949年、
恵比寿に生まれた松本芳枝さんは
「穏やかな恵比寿の街が大好き」と笑う。
いまは昼夜を問わず往来が激しい駒沢通りには、
渋谷橋から中目黒までを結ぶ路面電車
「都電中目黒線」が1927年から
67年まで走っていたという。
小学校に上がる頃、駅周辺には
日用品や靴下などを持った行商の姿もあった。
わたしの頭の中には、92歳なる母と、
自分の記憶。合わせて150年分くらいの
街の記憶があるの
いまとは違う恵比寿の風景を知る松本さんに魅力を聞いた。
▼マダムEBISU Vol.2▼
松本芳枝
Yoshie Matsumoto
有限会社ユニオン企画代表取締役
恵比寿駅は1901年に、駅近くにあった
ヱビスビールの醸造場から、ビールを出荷する
専用の貨物駅として誕生。
1928年に街の名前になり、親しまれていった。
発展していた渋谷に隠れ、
「目黒との違いが分かりにくかった」と松本さん。
現在、飲食店などが多くある駅の坂の上は
向山と呼ばれ、日本専売公社の寮や一軒家が
並んでいたそうだ。
三井住友銀行がある場所(ヒューマックスビル)には、
洋服や呉服を扱う「スヤマ百貨店」があった。
「エスカレーターがあって、子どもながら憧れの場所だったのよ」。
話す目が輝いた。
あだ名はバンビ
童謡「夕やけこやけ」を生んだ草川信氏が
教べんを取った渋谷区立長谷戸小学校で学んだ。
少子化で1学年が2クラスに減ったいまとは異なり、
1クラスに50名以上が在籍し、4クラスもあった。
1200名以上が在籍する校内で
元気に跳ね回っていたこともあり、
あだ名は“バンビ”。
活発で面倒見がいいと信頼された中学時代は、
バスケットボール部でキャプテンを務めた。
当時は、165センチ、55キロ。
すらりと恵まれた容姿を褒められた時、
「みんながキレイに見えるような服を作って、世界で活躍するデザイナーになろう」
と夢をふくらませた。
デザインの世界からは離れたが、
高く張ったアンテナを生かし、
ヨガ教室、トレーニングジム、
日焼けサロンを開くなど、多くの事業を成功させた。
渋谷に埋もれた街は1988年の
ビール工場移転後に、大きくその顔を変えていく。
「動く歩道も、何もない時は真っ暗でね。”遊びに行っちゃいけない場所”」
だったと懐かしむ。
大きく変わった恵比寿
広大な跡地は再開発が進み、
1994年に映画館や飲食店、
オフィスに住宅など、
複合型の施設「恵比寿ガーデンプレイス」
として生まれ変わった。
ヨーロッパの雰囲気をたたえた街は、
大人が集う場所として注目された。
子育てを終え、
50歳の時に開いていた店をたたんだ。
「新しいことを」と始めたかっぽれでは、
海外のパレードに出向いたこともある。
また毎年、渋谷センター街で行う
七夕パレード(7月)では、
かっぽれ師範・櫻川夜后丸として
ちょうちんを持ち先頭に立って踊り手を導いている。
全15名のメンバーで踊る、
フラダンスマジックでは、
「クラシックな曲だけでは飽きてしまう」と、
芸人のブルゾンちえみwith Bが、
「35億」と決めぜりふを言うネタの
BGMに使用されている
オースティン・マホーンの
「Dirty Work」で踊るなど元気いっぱいだ。
恵比寿の街にある16の町会のひとつ
「エビス商店街振興組合」に所属する松本さん。
毎年6万人以上が集まる「恵比寿駅前盆踊り大会」
(7月)では、ヱビスビールや山形の名産
尾花沢スイカの売り子に変身する。
恵比寿神社大祭の「べったら市」(10月)では、
べったらの販売員として声を上げる。
「街で行うイベントが最優先。ある年に、ロシアに旅行を計画した時は、べったら市に合わせて(開催日の)お昼に帰国して、神社に直行したの。一緒に旅行していた人が驚いたのよ。14時には境内で声を出していたから」
文化を継承していくお祭りも、そこは恵比寿。
米こうじにつけ込んだクラシックなものと
一緒に、スモークしたべったらも並ぶ。
「原価販売で、大人気なんだから」。
威勢がいい声に行列ができるという。
まちづくりに携わって
「渋谷防犯協会副会長」、
「渋谷防犯婦人部会長」、
「渋谷法人会女性部会副部会長」、
「エビス商店街振興組合婦人会会長」、
「渋谷区長谷戸小学校OB会副会長」、
「渋谷区シニアクラブ喜楽会会長」、
「エビフライクラブ会長」
などさまざまな肩書きを持ち、
1年のほとんどを街のため、
エネルギッシュに駆け回る松本さん。
祭り以外にも、街の発展のために
頭をフル回転させている。
「キレイなところに、犯罪は起きない」
をモットーに、渋谷警察防犯地区委員会として
1年に4回クリーン作戦を展開する。
住民や、長谷戸小学校の生徒、
父兄だけでなく、スターバックスや
西武信用金庫など企業も一体になり、
毎回100人以上が参加する。
暮らしやすい街作りに加え、
渋谷区在住の60歳以上の人が参加できる
「喜楽会」では「孤立する人が出ないように」
と気を配っている。
「一人一人が地域の一員として活動して欲しい」
輪投げ、ゲートボール、詩吟、日舞にカラオケ。
できる人ができない人に教える形を取っている会では、
参加する全員が先生。
「知らないことを教えてもらえるのが楽しい」。
輪は広がり、74人だった会員は130人に膨らんだ。
人の結びつきも強くなり、
2017年には、東京シニアクラブ連合会から表彰もされた。
先人が築いてきた歴史が、
“住みたい街”の称号につながった。
2020年に来る
東京オリンピック・パラリンピックは、
恵比寿の名前を世界に知ってもらうチャンスだ。
「日本で一番は当たり前。“世界で一番”を目指して、若い人と手を取って行きたい」
大切にしていること
一度きりの人生。楽しく目いっぱい生きたい。生きることは新しい自分と出会うことだから。そのための努力を惜しんだりしない。代官山で暮らす娘ファミリー、夫の励ましが原動力。「92歳の母と囲む朝食は、幸せをかみしめる瞬間。『生んでくれてありがとう』と1日を感謝の気持ちで始めることができることは幸福なこと」。
恵比寿は何色?
うすいピンク色。型にはまらずに、のびのびと息をすることができるから、自分自身を創造するのに最適な街。1カ月でも恵比寿に住んだらもう“ふるさと”。恵比寿に住めば、幸せになれます!
文:西村綾乃 イラスト:ウチヤマカオリ