昔恵比寿駅東口の坂は石畳だったという前回の記事
あれから実に1ヶ月。恵比寿新聞では相当膨大な聞き込みと写真提供を
募集しましたが当時の石畳の写真や資料が存在しておらず半ばあきらめかかった頃
なんと情報提供者の方がいらっしゃりお話を伺う事が出来ました。
戦後すぐにこちらの坂で瓦屋さんを営む「ヱビス瓦工業」の女将にお話をお聞きする
事が出来ました。情報は我々が想像していた以上の驚きの事実が判明しました。
ヱビス瓦工業さんは戦後間もなく先代が恵比寿に移り住んだそうで
当時からすでに石畳は存在していたそうです。
戦後間もない日本は物資が少なく、当時の恵比寿駅は貨物駅があり
そこから石炭を積んだトラックが通ると気の利かせた運転手は徐行運転で
石畳の上を走る車は揺れ、石炭が荷台から転げ落ちるのを意図的にわかってやって
この五差路に石炭を落としていったという話から始まりました。
生まれも育ちもここのツユ子さんは昭和22年生まれ。
さて、石畳はいつからなくなったのでしょうか?そしてどうして中途半端な
所々残った状態のままなのか。当時の写真を提供していただきました。
こちらは当時1987年の写真。昭和62年。今から25年前。
若干ではありますが石畳が残っています。よく見ると五差路のみずほ銀行が建設前です。
同じ場所から撮影してみました。
こちらを見るとすでに工事がなされた後かもしれないです。という事は
1987年には石畳の撤去工事が始まっていたという事になります。
こちらの写真は女将の娘さんのゆうこさんの753での写真。
さかのぼると1979年の当時は石畳が100%そのままの状態で残っているのがわかります。
同じアングルから撮影してみました。
ここでわかっているのは1987年には工事が始まってて1979年は健在という事は
1980年~198?年の間に工事されているという事がわかります。
丁度娘さんが5歳ぐらいの時期でしょうか?
1981~2年代初頭と思われます。
同じアングルから撮った写真を見ると同じ場所はすでに今はアスファルト。
1982年~198?年の間に工事されているのか?当時の事を女将にお聞きすると
長い間かけて工事を行っていたという事なので何年もかけて工事していたのでしょう。
そして衝撃の話を聞くことに。
女将
もともと歩道側も石畳だったんですよ。しかし1960年の安保闘争の際に
この石畳の石が投石の石として使われることを懸念してアスファルトに塗り替えられたんです。
当時は全共闘などの過激派学生が多く恵比寿にいたこともあり止む負えなく
工事することになったんです。
女将
そして1980年代に入り、恵比寿駅前が自転車の駐輪問題で大変だったんです。
当時はバス代も値上がり白金や恵比寿を最寄とする住人の方が自転車で恵比寿駅までくるでしょ?
当時の恵比寿駅前は自転車だらけでした。機転を利かせたのか渋谷区がこの坂の半分を
自転車の駐輪場にするという計画が持ち上がりいきなり坂道の石畳を剥がし始めたんです。
女将
承諾を取ったのか取ってないのかわからないまま住人は反対。
新聞にまで取り上げられるという問題に発展して工事はストップ。
そしてこのような途中工事のつぎはぎ状態の坂道になってるんです。
やはり住人の反対があったんだと驚きました。
何故石畳だったのか。これは当時日本ビールの貨物駅となっている荷台を運ぶ坂でもあり
荷物はすべて馬で運んでいたらしく馬の蹄でも滑らないため石畳が採用されたそうです。
工事の最中に見かけた光景として1つの石の深さがとても大きな石で上から張り付けた
石畳ではなく、地中深く石の柱を埋めてできた相当頑丈な石材だったらしいです。
そして話はこの坂の昔の話に。今は新しいビルが建てられて開発が進んでいますが
昔はこのような状態だったそうです。再現MAPを作成してみました。
開発が進む前は恵比寿駅の前に公園があったそうです。
その横には貨物駅という物が存在していたようです。丁度この駅と貨物駅の境目の写真も
提供していただきました
丁度恵比寿駅と貨物駅の境目で撮られた写真です。
この当時も駅前は石畳だったんですね。
その他にも五差路の角に交番があったり、今では聞きなれない建物ばかりです。
ヱビス瓦工業さんの建物は当時恵比寿では3棟しかなかったマンション
「ヱビスマンション」がそこです。9階建てで当時は周りに高い建物がなく
見晴らしも良く女将はいつも9階から羽田に降りる飛行機を夕日越しに眺めてらっしゃったそうです。
今回このような貴重な家族の写真を提供していただいたヱビス瓦工業さん。
そして娘さんのゆうこさん。お母様のツユ子さん。本当にありがとうございました。