第六回 恵比寿な人たち 「やおさく物語」 藤井光雄さん

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恵比寿の古くからの記憶を記録にするアーカイブ企画「恵比寿な人たち」

街の先輩方に戦前戦後のお話を伺い記憶を記録に残すという文化的プロジェクトです。

今回登場いただくのは明治43年創業の恵比寿ビール坂の八百屋「やおさく」の店主

みんなからは「お父さん」の愛称で親しまれている藤井光雄さん75歳です。

そして、まず最初に残念なお知らせをしなければなりません。

恵比寿ビール坂のみんなが愛する八百屋さん「やおさく」が今年11月末、

104年の歴史に幕を閉じます。すでにご承知の方もいらっしゃるかと思いますが

改めてこの記事で今までの感謝の気持ちとずっと私たちの八百屋さんでいてくれた

藤井さん一家へのはなむけの記事になればと思い魂を込めて書かせていただきます。

そして、今、この東京のど真ん中の恵比寿で何が起こっているのか、この記事を

通して皆さんに感じてもらいたいと思っています。

口々に皆こういいます。

「私が小さいころから、やおさくさんはあったから」と。もう80歳のお婆様もそう仰る

ぐらい歴史の古い「やおさく」さん。正式屋号は「藤井青果店」。明治43年1910年創業。

その年は江ノ島電鉄線藤沢駅・鎌倉が開通したりあのペコちゃんでも有名な「不二家」の

創業した年です。藤井さんのお話によると明治時代は現在恵比寿三丁目の旧伊達町や

長者丸などのお屋敷街や恵比寿にあった現在のサッポロビール社の工場に勤める社員の社宅に

野菜を配達するというスタイルで商いを行っていたそうで、その当時は恵比寿ビール坂

付近には商店も少なく一軒長屋が多く大きなところと言えば恵比寿ビール工場と

そのビール工場のビールを運ぶ馬の馬屋が軒を連ねていたと先代から

聞かされていたそうです。今回の取材をを行うため丁度仕事終わりの藤井さんと

向かった先は先日取材でお世話になった10月10日で40周年を迎えた「居酒屋久美」さん

この場所でちょっとお酒を傾けながら藤井さんへのインタビューが始まりました。

やおさく藤井さん
爺ちゃんから聞くと昔はビール工場とビールを運ぶ馬屋が沢山あったって言ってたよ

恵比寿新聞
あ!それ、笹本恒子さんからも聞きました。という事はお父さんも加計塚小学校卒!?

やおさく藤井さん
あたりまえだよ(笑)私はここに生まれてここで育ったんだから。うちのお店は加計塚小学校よりも歴史古いんだから。だって加計塚小学校95周年でしょ?うちはえーっと・・・

恵比寿新聞
104年ですよ(笑)忘れちゃったんですか?でもやおさくを閉めるって話を聞いたのが随分前のビール坂祭りの打ち合わせの時。衝撃でした。。

やおさく藤井さん
まぁね。建物もさ、もう古いもんだからさ。しかもこのビール坂にはやっぱりうちみたいなお店じゃなくて今風のお店が入ってもらったほうが活性化するよ。これは保証したっていいよ。

久美さん
なにいってるのよ~。この辺のお店の人とか住んでる人は本当に困るよ~。

恵比寿新聞
まぁそうですね。ビール坂のお店の人はやおさくさんで野菜買ってるし、近所の人もそうだし。うちもそうだし。子供たちも集まるし。寂しくなりますね・・・

やおさく藤井さん
ん~。。悪いと思ってるよ。まぁでもしょうがないんだよ。でももう一度小さくてもいいから自分の好きなお店をやりたいなと思ってるよ。

恵比寿新聞
火を絶やさないってとても重要ですよね。そもそもお父さんが八百屋さんになろうとしたのって・・・あっそうか。先代から八百屋さんだったんですもんね。

やおさく藤井さん
そうだよ。小さい頃は店番させられてたから生まれた時から八百屋だね。そういえば昭和3年までは今の恵比寿の杜にやおさくがあったらしいよ。

恵比寿新聞
え!?今の場所じゃなくて向かいの大きなマンション「恵比寿の杜」に有ったって!?しかもらしいって?どういうことですか?

やおさく藤井さん
だって俺は生まれてないよ~(笑)

藤井光雄さん 昭和14年6月24日生まれ。今年で75歳。生まれも育ちもここ恵比寿4丁目。

生まれた昭和14年はナチスドイツ軍とスロバキア軍によるポーランド侵攻が始まりいわゆる

第二次世界大戦が勃発した年。その6年後、藤井さんが小学校1年生に上がってすぐにあの出来事が

起こります。1945年5月に起こった東京大空襲の「山の手の爆撃」です。

この写真を見てもらうとわかる通り恵比寿二丁目~四丁目に焼夷弾が落ちて爆撃のすごさが

わかると思います。当時藤井さんは埼玉県に疎開していたためこの日の爆撃からは逃れ

られましたがこんなエピソードがあるそうです。

やおさく藤井さん
小さいときにね、目黒のほうに爆撃機が焼夷弾を落とすのを遠くから見ていたことがあるんだよ。不謹慎なんだけどその光景がキラキラして物凄く綺麗でね。幼子心にはそういう感じで映っていたよ。うちには地下があって、昔はそこが防空壕だったんだけど、空襲警報が鳴るといつもそこの防空壕に入ってね。ぜーんぶ焼けてなくなってね。うちのお店から恵比寿駅が見えるんだもん。焼けて何もなくなってしまって。昔は渋谷川の恵比寿橋付近に空襲のあった時に避難する場所があったの知ってるかい?知らないだろうな~。近隣の人たちはみんなそこに逃げたんだよ。もうそのぐらいしか覚えてないな。なんせ戦争が終わったのが小学校の低学年の時だからね。でももう一つ覚えていることがあってね。

思い出の1セント

やおさく藤井さん
戦争が終わると恵比寿駅の貨物駅には国へ帰るアメリカ軍人さんが乗った軍用の列車がよく恵比寿駅に止まっていたんだよ。止まっているとその軍人さんはいろいろと投げてくるんだよ。飴とかガムとかチョコレートとかコインとかね。我々が拾うもんだから面白がってドンドン投げてくるんだよ。私も小さいけど大人や子供に交じって一生懸命拾ったね。やっとのことで拾ったのが当時の1セント硬貨。今でも大切に持ってるんだよ。

戦後を切り抜けて

戦争が終わり久美の先代、岡安松男さんもおっしゃっていましたが恵比寿2丁目~4丁目は

焼け野原。バラックだらけ。遠くからでも恵比寿駅が見えたそうです。そんな復興の最中

学校ではこんな授業が行われていたそうです。

やおさく藤井さん
戦争が終わって昭和23年だから小学校2~3年の頃かな。当時は子供が沢山いたから午前の部、午後の部と2回に分けて授業をやっていたんだよ。午前の部か午後の部で分けていたんだよ。

恵比寿新聞
えーー!!??じゃあ午前の部の子たちは学校は午前中までという事ですよね!?

やおさく藤井さん
そうだよ。どっちかと言えば午前の部のほうが人気があったな~。終わったら遊びに行けるんだもん。でもうちは八百屋だったからお手伝いさせられてたね。

昭和30年当時の恵比寿駅

やおさく藤井さん
丁度高校に入るのが昭和30年。家から恵比寿駅まで走っていくと東口から西口にわたる木の渡り廊下というか、橋みたいなのがあってね。よく急いで渡って電車に乗ったもんだよ。

恵比寿新聞
今や大きな商業ビルが建って跡形もないですが、当時は人はどうだったんですか?

やおさく藤井さん
全然!夜なんて人っ子一人もいないよ~。だって渋谷の次は目黒って言われていたような時代だからね。今や考えられないね。

恵比寿新聞
貨物駅が主体の恵比寿駅というお話も聞いたことがあるんですが。

やおさく藤井さん
昔からサッポロのビール工場があったからね。トラックがいろんな物を運んでたよ。そうそう。当時はサッポロに勤める人たちがこの恵比寿にたくさん住んでいたんだよ。

恵比寿新聞
え!?そうなんですか!?

やおさく藤井さん
そうだよ。恵比寿橋の近くにも大きなサッポロさんの社員の社宅が有ったり。今のサッポロ本社の向かいの加計塚小学校の所も重役の人が住む一軒家の社宅が沢山あったんだよ。恵比寿は昔からサッポロの城下町みたいなもんだからね。

恵比寿新聞
そうなんですね。同級生にもサッポロの社員のお子さんも多かったんですか?

やおさく藤井さん
多かったね。一番の思い出は受験の時に近所にあるサッポロのビール工場の工場長さんの家で勉強してるとね。リボンシトロンが出てくるんだよ。それが当時はうれしかったね。その他にもサッポロビール工場の中には顔パスで入れたんだよ(笑)近所の子供だから。工場の敷地内にはビールを洗うため水を貯めた大きな溜池があってそこにはオタマジャクシが沢山住んでてね。いまじゃあれやるな!これやるな!のご時世だから考えられないけど昔はそんな近隣の人とも仲良くやってたから許されたんだろうね。

大学卒業後やおさくを継ぐまで

やおさく藤井さん
大学の時から「今の八百屋の商いのしかたを一新しないと」と思うようになってね。卒業後、親のコネで渋谷の「大和田青果」さんに修行に行ったんだよ。そこでは八百屋のイロハを教えてもらってね。今でも親交はあるんだよ。お世話になったお店だね。そして昭和47年に昔の八百屋のスタイルから一新して今のスーパーマーケットのスタイルにしたんだよ。

恵比寿新聞
これが今のやおさくのスタイルの前身なんですね。でも昭和47年と言えばまだコンビニエンスストアやスーパーなんてない時代ですよね?

やおさく藤井さん
セブンイレブンが日本に来たのが丁度この頃だからもしかしたら俺のほうがちょっと早かったかもしれないね(笑)

調べてみたら驚き。セブン-イレブン・ジャパンが創業したのは1973年の昭和48年。

「やおさく」が野菜だけではなく生鮮食品や生活雑貨を販売するコンビニエンス

を始めたのが1972年の昭和47年。なんと1年も先駆けていたという事がわかりました。

やおさく藤井さん
当時はこんなコンビニみたいなお店なんてないから毎日人でごった返したもんだよ。若い衆もたくさんいたからね。今は大きなデパートやスーパーがドンドン恵比寿にも進出してきているけど当時は画期的だったんじゃないかな。

恵比寿新聞
それは画期的な事ですよ。昔はだって八百屋は八百屋。米屋は米屋。雑貨屋は雑貨屋ていう各業態で商いをしていた時代。でも僕が思うにお父さんのようなお店があるから地域の人たちのコミュニケーションも活発になるし、ある意味「やおさく」って町の人たちが寄り合うコミュニケーションの場所なんじゃないかなってずっと思ってました。大きなチェーン系のお店ではこんな普段の会話なんてお店の人にしないですからね・・・物売るだけでお話禁止みたいなお店もあるし。

やおさく藤井さん
そうだね。小さい頃からお菓子を買いに来てくれている子も今や立派なお母さんになってたりね。みんな結婚したり色々あったりね。そういうのは本当にうれしいね。

幕を閉じるという事

やおさく藤井さん
先代から引き継いだお店を私の代で閉じるというのは本当に残念だよ。できればそうしたくないけど時代っていうのは流れていくもんだからね。町のことを考えるともっと人が集まるお店がこの場所にできてくれることが発展につながると思ってる。今は大きなスーパーチェーンやコンビニが沢山あるからね。無くなっていくものもあれば新しくできるものもある。

恵比寿新聞
先日閉まった「新橋湯」にしかり、昔から商いを営んでらっしゃるお店がドンドン無くなるっていうのは寂しい一方、その場所に新しいものが入って便利になるって事もあると思うけど。藤井さんのように地域密着で住民の人から愛されていて、皆からすればよりどころが無くなるっていうのは本当に寂しいことですよ。

やおさく藤井さん
でもね。私はね。チャンスがあれば自分の小さな店をやりたいと思ってるんだよ。できればだけどね。まずはお店を閉めたら今まで一緒に頑張ってくれた家族と一緒に旅行でも行ってゆっくりしようかと。

恵比寿新聞
そうですよ。50年ぐらいずっと働きづめだったし。朝早くて夜遅くて。みんなお父さんや家族の皆さんが頑張ってらっしゃるのを見ているのでわかりますよ。

やおさく藤井さん
とにかく、今までお世話になったお客様には本当に感謝しています。ありがとう。11月末までお店はやっていますから是非果物でも野菜でも買いに来てね。

編集後記
実は今回の取材は藤井さんたっての願いでした。何故かというと、

戦争中のことはもう知らない人が多いから自分が知っているだけでも

話しておけるうちに伝えたいという事でこの取材が実現しました。

そしてそんな取材のスケジュール調整をしている中での閉店の話。

正直恵比寿新聞というメディアの立ち位置からこのように104年の歴史に

幕を閉じる事に触れられたことをとても光栄に思いますし、恐縮な思いです。

包み隠さず今の気持ちを書くとすれば「時代の流れには逆らえない」という

のが正直な話。しかしどんどん個店が無くなっていくにつれ、大きなチェーン

が押し寄せ、どこにでもある都市の風景になっていく事に戸惑いを覚えています。

「小さなお店が沢山集まって街の色ができている」と恵比寿新聞は思っています。

子供の頃、小さな駄菓子屋でチョコレートを万引きしようとした時に幼い心ながらも

いつも可愛がってくれた駄菓子屋のお爺ちゃんの顔がよぎり辞めたことがあります。

そんな良心が芽生えたのもこうして可愛がってくれた駄菓子屋のお爺ちゃんがいたから

こそだと思うような体験って皆さんもあるんじゃないですか?「地域が子供を育てる」

って昔からあったけど今はどんどん大きな会社が一極集中で栄えていく利益追求時代。

小さなお店がどんどん減っていることに不安を覚えます。でもどうすることもできません。

でもこうして104年間我々の台所として商売を続けてきてくれた藤井さん一家に

心から尊敬の念と今まで本当にお疲れさまでしたと言いたいと思います。

11月末まで「やおさく」さんはご商売されているので是非皆様感謝の気持ちを

直接お伝えに行ってみてはいかがでしょうか?ありがとうやおさく。

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