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第三回 恵比寿な人たち 居酒屋久美 岡安松男さん「居酒屋久美物語」

「恵比寿の記憶を記録する」アーカイブプロジェクト「恵比寿な人たち」

フリーペーパーココカラと恵比寿新聞連動の企画でございまして

「恵比寿な人たち」今回で早いもので第三回目でございます。

今回お送りする第三回目は恵比寿で40年の老舗居酒屋「久美」のお父さん。

岡安松男さん81歳です。皆さん居酒屋久美をご存知でしょうか?

平日でもいつも満席の盛況店でして40年の歴史を誇る恵比寿住民がこよなく

愛する老舗居酒屋。その創業者でもある松男さんに今回お話を聞く事に。

毎度おなじみの事ですが、フリーペーパーココカラでは書ききれなかった

インタビューやエピソードを恵比寿新聞ではお送りできればと思います。

ココカラはこちらに置いていますので合わせて読んでいただければと思います。

戦前・戦後を経験し居酒屋久美が出来るまでの壮絶な「居酒屋久美物語」をどうぞ。

こちら岡安松男さん。現在81歳。1933年恵比寿生まれ。加計塚小学校出身。

松男さんの生まれた場所は現在の恵比寿郵便局の交差点からガーデンプレイス

に上がって行く右手の現在外車屋さんの横あたりが生家だったそうです。

忘れられない戦争の事

松男さん
本当に何にもなかったんだよ。この辺もどこもかしこも。ビール工場があったぐらい。うちはおやじの岡安勇一郎の勇を取って「勇(いさみ)寿司」という寿司屋さんと言っても海苔巻やお稲荷さんを作る仕出し屋さんみたいな稼業で大きい時は若い職人が10人ほど働くお店だったんですよ。いわゆる葬式や結婚式の行事の時に頼むお寿司という感じだね。

恵比寿新聞
当時お父さんが小学校の頃だと逆算すれば戦争中ですね。

松男さん
そうだよ。空襲になるとね「ウゥーーーウゥーーー」ってサイレンが鳴るたびに怖い思いをしたよ。飛行機の音も怖かったね。。でね私が加計塚小学校6年生を卒業した年に大変な事があってね。丁度忘れもしない昭和20年5月23日。うちの兄弟は兄と妹がいて、戦争中だからみんな疎開していたんだよ。なんでだか思い出せないんだけど私と父親だけは恵比寿にいたんだよ。でね。

恵比寿新聞
でね?どういう事があったんですか?

松男さん
丁度夜おやじと寝ていると真夜中だよ。「ドカーーーン」って大きな音がしてね。飛び上るように起きたんだよ。なんだか恵比寿二丁目の方が騒がしくてね。後で聞くと今の恵比寿二丁目の交差点に焼夷弾が落ちたんだよ。


※焼夷弾の落ちた恵比寿二丁目交差点

恵比寿新聞
え!?あんな所に落ちたんですか?噂によるとその爆撃で結構家が燃えたという。

松男さん
そうなんだよ。その焼夷弾のおかげで恵比寿2丁目から3丁目4丁目まで焼けたんだっけ。焼夷弾というのは爆発する威力じゃなくて燃やす威力なんだよな。

恵比寿新聞
なるほど。。で。松男さんはその爆撃があった時どうしたんですか?

松男さん
おやじと一緒に逃げたよ。家を出たらビールを運ぶ馬と人でごった返していてね。悲鳴や怒号が凄かったのを覚えてるね。恐ろしかったよ。親父と俺はそのままビール工場を抜けてアメリカ橋を渡ってそのまま目黒駅の権之助坂の坂の桜の木の下で非難したんだよ。親父がね「木の下は物が落ちて来ても大丈夫だから」って言ってね。親父は関東大震災も経験している人だからその辺はどうすれば良いかわかってたんだろうね。

恵比寿新聞
で助かったという事ですよね。

松男さん
助かってなかったらここに居ないよ(笑)で朝になって恐る恐る帰ったんだよ。するとね。ビール工場からうちにはもう到底入っていけないような家が燃えている状態でね。困ったもんだから回りまわって恵比寿二丁目の交差点まで回って行ったらまだ全然入れる状態じゃなくてね。結局広尾一丁目の交差点から入ってなんとか自分の家に戻る事が出来たんだけど。全部焼けてたよ。その日朝から大きな注文が入っていてね。米30俵・油・海苔・炊飯道具やもうね。全部焼けてしまってね。これはもうだめだという事になって。

戦後からの再建

松男さん
しょうがないから親戚の家が今の南平台あたりにあったから一日避難させてもらってね。次の日また空襲がひどいことになってね、東京以外の親父の実家へ逃げる為に避難させてもらっていた南平台から歩いて上野駅まで行ったんだよ。

恵比寿新聞
上野駅まで歩いて行ったんですか!?

松男さん
そうだよ。その日がまた大きな空襲があってね。上野に行く前に表参道あたりで焼けた亡骸の山を見てね。もう今思い出すだけでもね。。今も慰霊碑があったりするんだよ。その日は必死の思いでおやじと上野まで歩いて到着してそのまま親父の実家の栃木県粟野まで逃げたんだよ。

恵比寿新聞
壮絶すぎる・・・調べによるとこの「関東大空襲」での死者は8万人とも言われていますね。それで松男さんは栃木に避難されてからは?

松男さん
栃木には半年いたんだよ。でもこのままいてもしょうがない。戦争も終わって何かしないといけないという事で栃木から再建のために木材や材料をトラックに積んで恵比寿に帰ったんですよ。親父は小学校の給食係の仕事があるからそこで働いてね。私は朝川崎や遠い畑のあるところから芋を仕入れてね。恵比寿の家で芋を蒸かして渋谷の駅まで売りに行っていたんだよ。

恵比寿新聞
渋谷の駅ですか!?芋の屋台って事ですよね?

松男さん
そうそう。当時は渋谷駅を管轄にしていた安藤さんっていうやくざ屋さんがミカジメしていてね。その人たちが子どもだからってやさしくしてもらった記憶があるよ。小さいのに良く頑張ってるなと良い場所をあてがわれてね。でも逆に買う人達には色々といじめられたね。我こそはって人を蹴散らして行かないと生きていけない時代だったからね。苦労しましたよ。家もぼろくてね。松の皮を伸ばした瓦もどきで風が吹けば飛んでいくんだよ(笑)そこからよく星が見えたもんですよ。

※詳しくは安藤昇の生涯を描いた「渋谷物語」を参照。

お店を持つことになるまで

松男さん
学校もろくすっぽ行ってなくて家の家業を手伝っていたからね。15歳から17歳までねじ工場や水洗トイレの工場で働いていました。恵比寿は昔からねじ工場や工場が多くてね。その当時の月給は900円。厳しかったね。17歳から24歳までヱビス製パンというパン屋さんで働く事になったんだよ。今ガーデンプレイスのサッポロの工場で従業員さんにお昼ご飯のパンを売ってたこともあるんだよ。その後24歳~28歳まで大森にあったうどん屋さんと言っても製麺の方のうどん屋で修行することになってね。で、28歳の時に恵比寿の実家でうどん屋さんを始めることになったんだよ。

恵比寿新聞
うどん屋さんですか?

松男さん
うどん屋と言っても卸の製麺の方ね。天ぷらとセットで売っててね。そのうちそこを通る人から「店先で食べれるようにしてほしい」と言われて始めたのが最初の客商売かな。それで今の長女が生まれた年に新しい定食屋さんを恵比寿で始めたんですよ。

恵比寿新聞
それが「居酒屋 久美」なんですか!?

松男さん
いや、それはこの後だね。実は昼飯を食べれるお店を始めたんだよ。場所は今の新橋商店街の入り口あたりに小さな店をね。


※ビール坂を下って交差点を渡ったすぐに1号店がOPEN

居酒屋久美 誕生

恵比寿新聞
なんていう名前のお店だったんですか?

松男さん
忘れちまったな~(笑)開店した当時は今建て替えしている恵比寿橋の手前にある「成和ビル」の建築中でね。そこの建築現場で働く人がたくさん来てくれてね。その他にも権之助坂にあった「高砂自動車」ってタクシー会社があってそこの社食もやっていたんだよ。忙しかったね。OPENした定食屋はお客さんが夜も来るようになってビールを出して営業してたらお酒飲んでうるさいからっていう事でお酒の飲めるお店をやろうって事で今の「居酒屋久美」が始まったんだよ。

恵比寿新聞
やっと来た(笑)居酒屋久美の話(笑)久美って言うのはもちろん?

松男さん
奥さんの久美子からとって「久美」にしたんだよ。


※松男さんの最愛の奥さま久美子さん

恵比寿新聞
もうラブラブですよね。40年ってすごいな~。お店の改築などは行ったんですか?

松男さん
元々奥の部屋は無かったんだよ。ぶち抜いてもらったくらいかな?

恵比寿新聞
というと後は全然改築していないって事ですか?

松男さん
そうだね。この天井もそのままだしなー。

恵比寿新聞
でも昔を懐かしんで来られる方も多いんじゃないですか?

松男さん
そうだね。昔は若かったけど今はみんな爺さんだからな(笑)よく顔出してくれるよ。

恵比寿新聞
という事は昔からある40年間定番の料理ってあるんですか?

松男さん
あるよ。うちで変わらず出しているのは「ニラ玉」かな。これは常連さんが好きでね。

えーーーっとこのテンションで食レポに移行するには難しいですがw恒例の「実食!!」

40年の歴史を受け継ぐ居酒屋久美の「ニラ玉」頂いてみましたがもうトロトロ!!!

味付けもごま油が程よく効いていてちょっと小腹がすいた時にはもってこいですね。

恵比寿新聞
その他にはあるんですか?

松男さん
あるよ。茄子味噌炒め。これも40年ずっと久美にはあるね。

もう香りがナイスな茄子味噌炒め。火を入れ過ぎず程よい火の入り具合。

40年間味を変えずに常連さんに愛され続ける一品。こんな「居酒屋久美物語」を

聞いた後に食べるから一味も二味も違うだろうな~。では頂きます。

出汁が最高!!

この汁だけご飯にかけて食べたいほど濃すぎず薄すぎずのいい塩梅。

伝統を感じるお味でございます。しかも居酒屋久美の愛される理由の一つは

とても庶民的なお値段という事です。現在は娘さんの典子さんと息子さんの宏明さんと

お母様の久美子さんで営んでらっしゃいます。たまに松男さんも出ておられるそうです。

という事でお送りしました恵比寿な人たち第三回目。居酒屋久美のお父さん岡安松男さんでした。

本当に地元の方からもそうですがこの辺で働く皆さんが普段使いで利用する街の名店です。

恵比寿新聞もちょくちょくお世話になっています。恵比寿は本当に「山の手の下町」で

久美のようなお店があるからホッとできるという部分は本当に大切な事だと思います。

そして松男さんが経験した「戦争」という出来事を少しでも考えれる良い機会だったと思います。

望んでこんな苦労されたわけではないですし、松男さんが仰ってた事で印象に残った

言葉がありますのでちょっとご紹介したいと思います。

松男さん
俺たちの生まれた時代は本当に不幸だったと思うけど努力しないと生きていけない時代だったと思うんだよ。だから死にもの狂いでなんでもできたんだろうね。でも今の子は何でもすぐにあきらめてしまう。学校で先生に怒られたことが無いんだろうね。あぁ。怒れなくなったんだよな。俺の時代は先生から良く怒られたもんですよ。でもそんな先生が一番俺たちの事を好きでいてくれて大人になっても連絡をくれたりしてね。今はそういうのが無いっていうのが寂しいもんだね。

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