もうここには神戸さんがいない。
神戸さんが旅立って早4カ月。
日本のイタリアンの巨匠「神戸 勝彦」。
テレビ番組「料理の鉄人」で名を馳せた偉大なシェフ。
でも地元の僕たちからするとお昼になると
いつも自転車で恵比寿を走り回っていた神戸さん。
八百屋でニコニコ買い物をしていた神戸さん。
ある日、恵比寿新聞はMASSAの前を歩いていると
救急車が停まっていた。何事なのか不安がよぎる。
ビール坂商店会の会長の多田さんからも連絡があり
「神戸さんのお店の前に救急車停まってるけど大丈夫?」
とその後聞いた突然の訃報。
実は恵比寿新聞が開局して何年か経った時、
もう今はなき「やおさく」で神戸さんとばったり
「神戸さん。今度取材させてくださいよ~」と
すると神戸さんは「そうだね~。地元の新聞だもんね」
とおっしゃってくださっていましたが叶う事なく
神戸さんは逝ってしまいました。
お葬式が終わりお店が営業を再開したと聞き
お悔みと今までの感謝の花束を家族で持って行った時
奥様から
「生前神戸が恵比寿新聞さんの取材を受けなきゃ」
って言ってたんですよ。本当にごめんなさいね。
とおっしゃってくれた。神戸さんの想いを受け継ぎ
再び悲しみのどん底からスタッフの皆さんが立ち上がり
お店を再開したのであれば是非恵比寿新聞で取材をと
今回取材させて頂ける事になりました。
昭和気質の神戸さん
お店を訪れたのはお昼のランチ時。
奥様があたたかく迎え入れてくださった。
「本当に来てくださってありがとうございます」
生前になかなか連絡が取れなかった理由に
奥様からの話で神戸さんは携帯も持たない
超アナログ昭和気質のお方だったようですが
最近は料理人仲間と一緒に行く夜の焼肉会が
楽しみでお店のパソコンからFacebookを使って
やり取りするのが楽しみだったそうな。
そんなアナログな神戸さんはどうやって皆さんと
連絡を取っていたのか?とても不思議ですが
ristorante MASSAに10年務める鈴木さんが
こんなエピソードを話してくれた。
マメすぎる性格
実は鈴木さんは調理師志望でMASSAに入ったのですが
途中でMASSAを退職されている経験があるそうです。
鈴木さん
実は僕は一度MASSAを辞めているんですよ。厨房で料理を作るのが僕の目標だったんですが、神戸さんから「君はサービスにむいているよ」と指摘されて、でも一度は厨房に立ちたいとMASSAを辞めて別のお店で働くことにしたんです。それから神戸さんは僕の働いている店に照れながらたまに来てくれるんですよ。心配だったのかもしれません。そういう方なんですよ。神戸さんは。そういう縁もあってMASSAにまた戻って今もサービスとして働いているんです。
奥様からも神戸さんは常に外食を好まれて
いつも友達のいるお店に行っていたようで
常に人と接していた人柄がうかがえる話だった。
その他にも鈴木さんに神戸さんが居なくなって
いちばん感じることについて聞いてみた。
鈴木さん
神戸さんは本当に几帳面な方で洗いものをする水の量から捨てるティッシュの数まで非常に気にされる方でした。でも今考えてみると全てが思いやりなんですね。捨てるものはなくて使えるものは使い切るのが神戸さんの流儀。そして仕事には厳しい方だったので怒られることもしばしば。なので神戸さんが居なくなると急にお店が静かに….
地元想い
奥様
この料理は「夏のスペシャリテ」で桃のスープなんです。実は神戸の実家は山梨市の桃農家なんです。彼はこの桃にとても思い入れがあって市場に出回らない特別な桃なんですね。桃の木の一番上になる桃の実は糖度が高く、この桃じゃないと神戸はこのスープを作らないくらい思い入れがあって。
頂いてみたのですが桃の甘みが程よく
フォアグラとルッコラの相性が最高で
細かくさいの目にカットされた桃が
まぁ~ジューシーな事。神戸さんが
小さい時から食べてる桃なのかぁ~。
そしてその味をしっかりと受け継ぐシェフが
いるんです。神戸さんの右腕として
開業当時から一緒に腕を振るう吉田さん。
師の想いを受け継いで
来年で創業20周年を迎えるristorante MASSA。
奥様の話によると神戸さんはこの20周年を
とても楽しみにしていたようです。
10周年は盛大におこなったことで
15周年を華々しく迎えることも我慢して
20周年に大きくお祝いをする予定だったが
想いは実らず。この吉田シェフもOPEN当時から
神戸さんの右腕としてやってきたお弟子さん。
ristorante MASSAと言えばやはり「パスタ」。
全て朝から手打ちで造られるこのパスタ。
現在も神戸さんの教えを忠実に守り
提供されている。まず最初に出てきた
北海道のウニを贅沢に使った冷製パスタ。
モロッコいんげんの食感と生パスタの
アルデンテ加減が歯ごたえよく
ウニの甘みがパスタにまとわりつき
いや~これは乾麺では再現不可能な
異次元なパスタとなってるんです。
なんていうんでしょうね。モチモチとした
食感の中に何とも言えない小麦の香りを
感じるんですね。しかも素晴らしい食材との
合わせ方もやっぱりすごいお店なんだなぁと
感動のあまりずっとニヤけてしまうような
初夏の夏の日差し恋しいお昼下がりの
チータイム的なひと時なわけでございます。
お昼なのにワインなんか頂いちゃって
気分はヘブン状態なのですよ。
「贅沢」は人をクリエイティブにするんです。
もうワインを傾けながら頭の中では
「盆踊りの撮影はこのアングルから(キマッタ)」
と恵比寿新聞が出せる最大のクリエイティビティが
リストランテMASSAの店内に炸裂したんですね。
いや。させて頂いたんですね。
と
こんなモードに突入してしまう程美味しい料理は
人を高めてくれるのでございます。
最後に出てきたのは「そらくもポークのソテー」。
このお肉が驚きの脂の優しさとさわやかさ。
ふと、神戸さんが居ないことに気づき、
神戸さん亡き今、このクオリティーで
料理を提供できている「一子相伝」の凄さを
食べるという行為によって知った事に鳥肌。
巨匠「神戸 勝彦」から受け継いだものは
一体何だったのかシェフの吉田さんに
お話を伺った。
答えが無くなった
恵比寿新聞
お忙しい中お時間いただきありがとうございます。実は吉田さんにお伝えすることがあって。もうないんですが4丁目の八百屋「やおさく」で神戸さんと会った時に「神戸さんめっちゃ忙しいんじゃないんですか?」ってお話したら「あはは^^うちには優秀なアシスタントがいるから^^」と言っていたのが吉田さんだったのかと。そう神戸さんおっしゃってました。
吉田シェフ
いや~。お恥ずかしい。
恵比寿新聞
あの日から神戸さんが旅立って、いきなりの事で受け止められない日々が続いたと思いますが、あれから4カ月。吉田さんの中で欠けたピースがあるとすればなんですか?
吉田シェフ
そうですね。今まで神戸さんのもと働く日々が19年あって、自分が失敗したら「神戸 勝彦」という答えがありました。でもその「答えが無くなった」ということでしょうか。
恵比寿新聞
そうですよね。それだけ偉大な方でしたし。でも神戸さんもそんな答えのない「食」の世界を切り開いてきたのかもしれないですよね。
吉田シェフ
はい。だから次は僕の番なんだなという自覚がこの4カ月の間に色々と考える機会が出来ました。
続けるという選択
恵比寿新聞
奥様にも一緒にお話し聞かせていただいてよいですか?あの日から4カ月。とても正気ではいれなかったとお察しします。そしてお店を存続させていくという決断に至った経緯を教えてください。
奥様
神戸が亡くなりもう頭が真っ白になって、正直お店の事「どうしよう」となっていたんです。その時に今働いているメンバーの皆で考えてくれて「続けていきましょう」という事になりました。お葬式の手配に1週間かかる間も予約を受けたお客様もいらっしゃるので営業をし、お葬式の次の日には通常営業するという事が出来ました。
恵比寿新聞
こういう事言うととても失礼になってしまうのですが、トップシェフが亡くなれば閉めるお店が大半の中、神戸さんの想いを受け継いで営業を再開させ「続けていく」という事をとても素晴らしい事ですが勇気がいることだなと。吉田さんはどのような心境だったんですか?
吉田シェフ
もうやるしかないと純粋に思っただけですね。
奥様
洋平君(吉田シェフ)は高校卒業してすぐにうちに来てくれたんです。それからずっとうちの店でがんばってくれて。
恵比寿新聞
どのようなきっかけで吉田さんはMASSAに入ったんですか?
吉田シェフ
実は僕の実家もイタリアンをやっていて、親から「バイトするならうちでやれ」と高校3年間親のお店を手伝っていたんですね。もともと進学校だったんですが進学もせず働くと言ったら親の知り合いの天ぷらみかわの早乙女さんを通じてマダム(奥様)につながりristorante MASSAのオープニングスタッフとして働くことになったんですよ。最初の1年はホールで働き、2年目から厨房に入りました。
恵比寿新聞
そうだったんですね。だからとても家族的な雰囲気がしていたのかと納得しました。神戸さんから色んな事を教わったんじゃないですか?
吉田シェフ
そうですね。今日食べたパスタの「キターラ」の作り方も神戸さんから教えてもらいました。今の時期梅雨なので乾燥が難しくて。うまく乾燥しないとあのモチモチっとした食感が出ないんですよね。
恵比寿新聞
19年間同じ空間で同じ厨房で神戸さんの料理を作り上げて来たからこそ「続ける」という判断が出来たのですね。
続けるなりの想い
吉田シェフ
でも….
恵比寿新聞
でも?
吉田シェフ
神戸さんの料理を愛して来てくれる方々に神戸さんから19年教わった料理を「再現」するだけで良いのだろうかという思いがあります。
恵比寿新聞
確かに。もう神戸さんはいないんですもんね。
吉田シェフ
神戸さんは独創的なアイデアマンで僕には超えることのできないシェフだと思っています。でも超えたい気持ちもあります。
恵比寿新聞
この「19年間」が答えなのかもしれないですね。奥様はどう思われているんでしょうか?
奥様
わたしは今頑張ってくれている洋平君が思うとおりにやってくれることを願っています。
吉田シェフ
突然の事だったので色々と悩みました。正直今も悩んでいる部分でもあります。このまま神戸さんの料理を忠実に再現して提供していくだけでいいのか?それとも私が神戸さんに教わった「食」を自分なりに切り開いていくのか?もちろん僕の中で神戸さんのパスタは今まで通り作り提供していくという気持ちはゆるぎなくあります。
恵比寿新聞
でも答えはもうあるんじゃないですか?19年間吉田さんが神戸さんと共に作って来た料理は神戸さんであり吉田さんなんじゃないかなと思います。うまく説明できないけど僕もおやじが亡くなってあの時もっと教わっておけば良かったなぁとかこういう時どうした?って聞く機会に恵まれず同じ「答えが無くなった」時期がありましたが「自分で切り開いていくしかない」って思うようになって。。すみません。。僕ごときが偉そうに・・・だから神戸さんの一番弟子だからできるのは・・・・(号泣)
すみません。いちメディアの記者が感極まって号泣。
でももう答えはあるんだなと。19年間の神戸さんとの
素晴らしい時間が次の20年の時間を作り上げる
そんな可能性しかない神戸さん亡きMASSA。
一つの家族のものがたりをみました。
神戸さんは本当に幸せ者だと思います。
素晴らしい家族と素晴らしいスタッフに
恵まれて神戸さんが命を懸けて作り上げた
「料理」というメッセージをくみ取って
次の世代へたすきリレーのように受け継がれる。
たまたま友達のSNSの投稿にこんな文章が
「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである。」
神戸さんが残したものは
とてつもなく尊いものなのかもしれません。
神戸さん。本当にお疲れさまでした。