【広尾の古民家解体続報】孤独死とどう向き合うのか考えさせられる広尾の古民家解体の話

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昨日速報でお伝えした明治通り沿い広尾にある古民家解体の続報です。あれから様々な証言が恵比寿新聞の下に来ました。貴重なご証言ありがとうございました。その中でも是非この件を伝えたいという事でこの古民家に住んでいた方の知人でもあり20年食事のお世話や今回の解体のお世話などを行っている石川さんからお話を伺いました。それがとても考えさせる内容でした。

石川さんからお借りした石井さんのお写真

 この家に住んでいたのは弟の石井さんとお姉さんでした。そもそも今回ご証言くださった石川さんと石井さんとの出会いは石井さんの家のおとなりでバーを経営されていた20年前にさかのぼります。挨拶をしても「あぁ」というぐらいだった近所づきあい。石井さんはとても内向的で近所づきあいなどされない方で短気で不器用な方だったそうです。そんな石井さんを見兼ねて石川さんは「ちょっとうちでお茶でもしていきます?」と声をかけそこから長い付き合いが始まりました。

※特別に許可を頂き撮影しています

石川さん
もう毎回何かしらのトラブルがあって「もう!石井さーん!」なんてガミガミ怒ったり一緒にレストランでご飯食べたり、うちのお店の料理をもっていったりと近所づきあいが始まりました。まぁ色々ありましたけど喧嘩もすれば一緒に食事を共にしたりという関係でした。

 このおうちも戦後周りが焼け野原になりその廃材を継ぎ足して作ったと石井さんがおっしゃっていたそうです。確かに細かく家の外側を見てみると廃材をつないでできていました。という事で戦後まもなく建てられた家だという事がわかりました。

元々は帽子屋さん

解体作業を行う中、家からは様々なものが出てきました。特別に廃棄前のものをみせて頂きましたがその中で写真が沢山あり、戦前この場所でご商売をされている写真も見つかりました。写真で分かったのはこの場所で戦前「石井商店 ハヤリ堂洋品店」という紳士服や帽子を販売するハイカラなお店だったという事がわかりました。その後昭和20年の東京大空襲で被害を受け周りの廃材で建築したのが今の家だった。

お姉さんの存在

石井さんはつい最近までお姉さんと暮らしていたそうです。石川さんのお話によるとお姉さんは若い頃、山が大好きでよく山登りに昔は行っていたそうです。お姉さんと石井さんの生活はよくケンカをしていたようです。徐々におうちが荒れだして今のような状態になっていったそうです。そんなお姉さんも体調を崩し、石井さんが看病する日々が続き昨年2020年9月に亡くなられたそうです。

石川さん
随分お姉さんの為に病院を行ったり来たりと石井さんが看病していたようです。看病の甲斐なく昨年亡くなられたんですけどお葬式とかそういう行事など誰もする人がいなくて私がお姉さんのお葬式などもしました。そこから石井さん一人の生活になって随分看病などで疲れていたのかな。今年の1月に2階の窓側で凍死という形で亡くなっていたんです。私が石井さんの第一発見者で。。

広尾生まれ広尾育ち

お姉さんも石井さんも広尾生まれ広尾育ち。近隣の付き合いもなく短気な気質でよく近所とのトラブルもあったそうです。しかし生前に老人ホームに入るという話があったそうですがやっぱりここを離れたくないと拒否。とてもこの家に愛着があったそうです。昭和三十三年の広尾中学の卒業アルバムが出てきました。どうして地元産まれ地元育ちの石井さんがこのような状態で近隣とコミュニケーションを取らず孤立していったのか?そもそも我々から「孤独」に見えているだけで本当は石井さんがこだわりを持って生活していたのか?孤独というものがどういうものなのか?とにかく亡くなってしまった石井さんにその理由を聞くすべはありません。

亡くなっていた2階の状況

石川さんがこんな話をしていました。

石川さん
随分前にお店の前にパンジーの花がポツっと置かれていたんです。スタッフに「これあなたが置いたの?」と聞いたらそうじゃなくて誰だろう?なんて折角だから植物の好きな石井さんにあげようと持っていったら同じパンジーが石井さんの家の前に置いてあったんです。そうか。昨日「こら~(笑)」って怒ったから「ごめんね」の合図でうちに持ってきてくれたんだ?と思って。それぐらい不器用な人だったんですよ。

石井さんはいつも家の横の2階に上がる階段の横にぽつりと座っていたそうです。石川さんが差し入れしないと食事はインスタント物が中心だったそうです。気さくにピースサインを送る石井さんは今まで我々住民が見たことのない笑顔がそこにありました。恵比寿新聞への証言提供者の中には石井さんと面識がある方が少なく、急に怒鳴られたやモンスターのような扱いを受けていたと聞きます。そして荷物が積載された家からの落下物を避けるようバリケードまでできどうしようもない所まで来ての今回の他界。

都会特有の近隣関係の希薄さもっと声掛けできていればと思う気持ちと近隣のと近所づきあいをおこなわなかった石井さんの想い。今はもう聞くすべがありませんがとても複雑で難しい問題だと思いました。沢山の広尾の住民が手を差し伸べたのかもしれません。それでもこの生活を続ける意思があったのだと思います。

全国での孤独死の三分の一がここ東京で起きていると言われています。超高齢化社会で我々はこの問題をどのようにして解決していくのか?石井さんのような特殊なケースもありますが、近隣の先輩方とのつながりをどのように育みこのような悲しい事故を防げるか。最近は「アクティブシニア」という呼び名もあるように活発に第二の人生を謳歌するシニア層がいらっしゃいますが、対極の「非アクティブシニア」とのつながりをどう作るのか?皆さんはどのように想われますか?亡くなられた石井さんのご冥福をお祈りします。

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