恵比寿西の居酒屋大吉
僕らは平和な時代に生まれたことが
どれだけ尊いものでかけがえのないものか。
とても考えさせられる出会いがありました。
つい先日先輩に連れられてたどり着いた
恵比寿西に39年営業する「居酒屋 大吉」
大体恵比寿が地元の先輩と飲みに行くと
ここに辿り着くことが多い。名物の
「油そーめん」がめちゃくちゃおいしい
ことは頭の中には入っていた。
この日も20:00から3人で先輩たちと
酒盛りが始まり23:00お店も落ち着いたときに
こちらのお店の店主「大吉平造(おおよしへいぞう)」
さんとお話しする機会があり世間話程度に
大吉さんの東京上京話を聞かせていただき
絶句したんです。この話は昔の人がいかに
大変だったのか非常に貴重なお話で
できることならばちゃんと記録しておきたいと
大吉さんに改めて取材を申し込み
今回お話を聞かせていただくこととなりました。
大吉平造さん
大吉さんは1936年3月3日鹿児島県徳之島
に生まれました。御年なんと80歳。
信じられますか!?
全く80歳には見えない大吉さん。
今も現役で調理場に立って地元徳之島の
郷土料理を39年間恵比寿のみんなに提供し続けている
とてつもなくパワフルな方なのです。
そんなみなぎるパワーの源は
いったい何なのでしょうか。
大吉さんが生まれた1936年、昭和11年は
2.26事件が勃発した年でした。
徐々に戦争の足音が聞こえてきます。
1939年9月1日ドイツ軍がポーランドへ
侵攻したことが第二次世界大戦の始まり
とされています。その後日本・ドイツ
イタリアが「日独伊三国軍事同盟」を結成。
1941年12月に日本軍はハワイ諸島真珠湾を攻撃。
連合国に宣戦布告し戦争がはじまります。
そして1944年頃から大吉さんの住む徳之島にも
恐ろしい空襲がやってきます。
大吉さん
もう思い出したくないくらい・・・怖いってもんじゃないですよ。防空壕に逃げ込んでものすごい爆撃音と今にも防空壕が崩れるか・・・空襲が落ちついたかな?と思って外に出てまたヒューーーっと飛行機が爆撃に飛んできてまた防空壕に逃げこむって生活が続いた時が一番辛かったな。知り合いは空襲でおじいおばあを爆撃で目の前で失って。体も一塊もなかったそうです。うちの兄貴も終戦の1カ月前に戦死しています。その他当時徳之島は特攻隊の基地があってね。皆沖縄に飛んで行ったんですよ。もう戦争のことは思い出したくない。何にも良いことはなかった。こんな事言うのは不謹慎かもしれないけど、もし広島に原爆が落ちて終戦していなかったら徳之島はあと何日かで皆殺しだったと思うよ。それほど怖いものでした。
当時沖縄方面の米軍と対抗するためには
「南西諸島」に航空基地を整備する必要があった。
本土から沖縄戦線へ中継する中間地点として
南西諸島の徳之島飛行場もつくられた。
そこに配備されていたのが若き特攻隊の基地。
終戦後徳之島は「外国」だった
この「特攻隊徳之島基地」に関しては
様々な証言が検索すると出てきますので
そちらを参照頂ければと思います。
そして1945年8月15日終戦を迎える。
翌1946年2月2日GHQは
日本の領域に関しての指令を発表。
北緯三十度から南の徳之島を含む
南西諸島は日本から行政分離され
アメリカ軍政府の統治下におかれました。
いわゆるこれが歴史にも残る「2.2分離宣言」。
徳之島および南西諸島が日本ではなくなった日。
この日以降本土への渡航は禁止になり
永住の目的および学生は就学することだけに
渡航が許可されるという厳しい条例が施行された。
大吉さん
戦後徳之島はね学校教育は日本。しかし統治はアメリカ。お金を稼ぐために本土に行くことは許されず当時島民はほぼ金銭のやり取りはなく「物々交換」でしたよ。仕事もなくてね。魚一斤(1斤600g)と芋50斤を交換したりしてたんだよ。当時徳之島での通貨はA券B券という琉球政府が発行した円とアメリカが発行した円と2つあったんですよ。軍票というものだったと思います。でもそんな通貨を持っているのは行政の仕事とかそういうのをしている人しかいなかったから。本土に行ける人もパスポートが必要なんだから。だから命をかけて親戚家族と縁を切り密航船に乗って本土に渡っていく人も多かったよ。当時はサトウキビが徳之島なら15円なのが本土に行けば120円で売れたんだよ。密航船が鹿児島についたときに本土の警察に見つかったら、大島紬やサトウキビを渡して罪をもみ消して許してもらった密航者が多かったと聞いています。
徳之島を含む南西諸島の方たちは
本土復帰に力を注ぎます。
本土として復帰するため
様々な活動が行われました。
その成果が報われ終戦の8年後、
大吉さん17歳の1953年(昭和28年)
12月25日のクリスマスの日。
徳之島は本土復帰します。
大吉さん
本土復帰。それはすごい盛り上がりでしたね。クリスマスプレゼントでしたね。徳之島には本当に子供が多かったから高校を出たら本土の大学に行ける人間はほんの一握り。俺たちの先輩はそれで苦労したもんですよ。だって大学いけなきゃ仕事のない徳之島にいなくちゃなんないんだから。密航船に乗って本土に渡り一旗揚げるか、そのまま徳之島に残るしかなかった。だから本土復帰は本当にうれしかった。
本土復帰(日本国復帰)までには
いろんな障害があった。家族を守るため
密航船に乗り鹿児島まで出た方。
大吉さんのお話では本土復帰前に
密航船で本土へ行く途中で命を落とした方や
本土に密航が成功し現在も東京で
活躍している方もいらしゃるそうです。
そして翌年1954年(昭和29年)
大吉さん18歳の春。
東京へ上京することとなります。
もう一生会うことのない別れ
大吉さん
東京へ出発の日。おじいやおばあや親戚一同がみんな港に集まってくれてね。今でも頭の中から離れないよ。「もうわしらは年だからお前と会うのはこれが最後かもしれない。がんばれよ」って年寄り連中がみんな、なけなしの小銭をわら半紙にくるんで餞別をくれたんだよ。小さな手漕ぎの船に乗って36時間かけて鹿児島まで行き、そして特急に乗ってそこからまた30時間かけて東京に上京してきました。とにかく東京に行って勉強したかった。
大吉さんは鹿児島まで
手漕ぎ船で36時間かけて渡り
その後特急に乗って東京まで
なんと30時間。述べ66時間をかけて
東京に降り立ちます。
東京に上京すぐに
貿易の会社に半年務めその後法政大学に入学。
当時は全く仕送りもないので
夜は銀座の喫茶店のバイト、
昼は学業と苦しい学生生活が始まります。
20歳の時に渋谷の百軒店にあった
「シモーヌ」という喫茶店に努め
その後新聞配達のバイトなど働きながら
学業に努め卒業と同時にトヨタ自動車に就職します。
大吉さん
トヨタ自動車に入社したての頃、固定給にするか固定給は少ないが歩合にするか決めるんだけど俺は「歩合」にしたんだよ。時代は成長期。どんどん車も売れて当時昭和35年ぐらいは普通の人の給料は13500円ぐらいだったけど俺は歩合だから100,000円ぐらいもらっていたんだよ。そんなこんなでトヨタ自動車を32歳まで勤めて板橋に自動車整備工場「南海自動車」って会社を作って独立したんだよ。まぁ区画整備があって5年で辞めたんだけどね。
運命の恵比寿との出会い
その後自動車整備工場をたたんだ大吉さん。
タクシー運転手に転職します。
その頃何の気なしに昼ご飯を
食べるために立ち寄った
今はなき恵比寿南の「白十字」という
喫茶店に行ったことが
恵比寿の居酒屋大吉が始まる
きっかけでもありました。
大吉さん
昼ご飯を食べようとタクシー降りて立ち寄ったのが「白十字」って喫茶店でそこのマスターと仲良くなって恵比寿に通うようになったんだよ。隣にあった「恵比寿苑」って中華料理屋にもよく行ったね。当時恵比寿のボーリング場の近くに全日本プロレスの練習場があってよくジャンボ鶴田とか来てたよ。その頃は恵比寿には何にもなかったな。そんなこんなで白十字を中心に恵比寿に縁ができて昭和51年に今の「居酒屋大吉」が恵比寿にできたんだよ。俺の故郷徳之島の郷土料理を出す居酒屋をね。
徳之島の郷土料理を続けて39年
大吉さんはこの恵比寿にもう39年
「居酒屋 大吉」を切り盛りしている。
本当に信じられないのが今80歳ということ。
そして今も地元の徳之島を想っている。
大吉さん
我々はいわば戦争が原因で徳之島から東京に出てきたようなものです。今生の別れも経験しました。本当に惨いことですよ。だから今も恵比寿で「居酒屋 大吉」をやっているときも気持ちは徳之島にあります。
地元の想いを唄にのせて
実は大吉さん徳之島でも有名な
三味線名人。まだ恵比寿新聞も
大吉さんの歌声を聞いたことは
ないですがこんなものを発見しました。
大吉さんが歌う「全島口説」
非常にモダンな島唄ですね。
さて、料理にも触れておく必要があります。
こちら大吉さんが切り盛りする
「居酒屋 大吉」で恵比寿新聞も唸る
名物逸品といえば「油そーめん」
これが何とも言えないうまさなんです。
その他にも南西諸島や沖縄でも名物の
ゴーヤチャンプルー。
とにかくぜひ「居酒屋 大吉」を
訪れた際には「油そーめん」と
「ゴーヤチャンプルー」を
大吉おすすめの黒糖焼酎で
お楽しみください。
※この記事はフリーペーパー「ココカラ」でも見ることができます
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居酒屋 大吉
東京都渋谷区恵比寿西1-7-11 1F
03-3496-8904
16:30~23:30 日祝休日