第二回 恵比寿な人たち 小林防火服(株)会長 エビス商店街振興組合理事長 小林虎太郎さん

シェア・送る

小林虎太郎さんは2015年4月4日療養中の中、他界されました。

享年75歳。謹んでお悔やみ申し上げます。

お通夜 18:00 場所 渋谷山福昌寺
告別式 10:30 場所 渋谷山福昌寺
MAP
喪主 小林寿太郎 

地域フリーペーパー誌「ココカラ」とサッポロホールディングスと恵比寿新聞が贈る

恵比寿の「記憶」と「記録」に残すアーカイブ企画「恵比寿な人たち」。

第一回目は日本初の女性報道カメラマン「笹本恒子」さん、今年100歳!を取材

させて頂きました。そして今回第二回目は江戸よりこの地に刺子・半纏店を営み

現在も日本の消防服を制作するメーカーとして有名な小林防火服会長の

小林虎太郎さんに恵比寿のお話を聞いてみました。尚、地域フリーペーパー「ココカラ」

とは少し思考を変えて恵比寿新聞では「ちょっと粋な話」をお伝えできればと思います。

虎太郎氏で6代目。現在は7代目小林寿太郎氏に代を引き継ぎ会長をされている

小林虎太郎さん。1940年生まれの74歳。恵比寿駅前商店街の方からは「虎さん」の

愛称で親しまれております。エビス商店街振興組合の活動にも長年従事されていて

この街の変貌を見てきたいわゆる「我らが先輩」なのであります。

小林家は1867年、まだ「江戸下渋谷村」だったころの恵比寿で刺子半天、

股引、足袋などを製造販売したのが小林防火服のルーツだそうです。

この写真は昭和20年頃の小林家の皆さんのお写真。この写真を撮った現場は

現在でも残っています。恵比寿駅高架橋の渋谷橋よりにある「テーラーコバヤシ」さん

の2階で撮影された物だそうです。結婚式の後の家族写真ですね。

恵比寿新聞、以前からずっと気になっていた「昔の恵比寿駅前商店街のお店並び」に

ついて虎太郎さんから貴重な資料とお話をお聞きしました。恵比寿駅前商店街。

皆さんもご存知だと思いますが駅前にある駒沢通り沿いの商店街です。

現在の駅前商店街のお店はほとんどが大手飲食フランチャイズ店ですが

今回お聞きしたのはなんと!?大正11年の駅前商店街のお店と昭和15年の駅前商店街

のお店の並びを虎太郎さんに教えてもらいました。これは貴重な資料だと思います。

この地図を元に恵比寿新聞が色々と調べてみました。

①大正11年から今まで存在するお店

上記の地図を見てみると大正から今も存在するお店として恵比寿駅前にある「朝日屋」

さんは現在も恵比寿でお蕎麦屋さんとして存在しています。現在の場所は恵比寿銀座の

入口に移動していますが元々は恵比寿駅のロータリー付近にあったという事がわかります。

その他には「紀伊国屋」さん現在は金物店と酒屋と別れていますが元々は一緒に営業されて

いたという事がわかります。紀伊国屋金物店さんは大正昭和にかけて現在の三菱銀行の向かい側

あたりに移動されていたんですね。現在は三菱銀行の横に移転されて営業されています。

酒店は恵比寿駅前ロータリーの朝日屋さんの横で現在も営業されています。

※三菱銀行横に現在も営業中の紀伊国屋金物店

その他、恵比寿神社の参道の横に営業する「ヱビス花園」は驚く事に大正から既に存在している

超老舗だったという事がわかります。大正時代特徴的だと思ったのは牧場が恵比寿に存在した

という事。永峰牧場という牧場があり、もしかしてヱビスビールを運ぶ為の馬屋としても

機能していたのかもしれません。その他「銭湯」がこの短い通りに2軒も存在したことが

見てわかると思います。当時は家に風呂がついているお家が少なかった事がわかります。

※恵比寿神社参道近くに営業するヱビス花園

②昭和15年の恵比寿駅前商店街

この頃になると洋品店やパン屋さんが多くなってきています。色々と調べていると当時

昭和15年に東京府が食堂・料理屋などでの米食使用を禁止するという条例を出します。

当時は食糧不足が深刻化、蕎麦屋の箸や薬味が店頭から消えるほどの物資難。背景には戦争に

よって男手が不足し農家の米の生産量も激減。「贅沢は敵だ」という有名なスローガンは

この昭和15年にできたそうで東京には1500本以上の看板が立ち並んだそうです。

なぜパン屋が増えたのか?

調べてみると昭和15年の米食使用禁止が出てからパンが大流行したそうです。

驚く事に雑草パンや興亜パンなる大豆や野菜やメリケン粉で作ったパンが出てきます。

これはNHK朝の連続ドラマ「ごちそうさん101話」でもこの「興亜パン」が登場します。

当時米食が禁止され物資としても配給のみ。パンやうどんが流行ったそうです。

地図の永峰牧場があったところに「ヱビスパン」というお店があります。こちらは

現在恵比寿神社の総代をされている並木さんのお店だったそうです。エビスパン

食べてみたいですね。復刻を願いたいです。

③町に愛されたおもちゃ屋さん

現在、恵比寿のご飯屋さんとしても有名な「三橋屋」さんは以前「三橋屋玩具店」

というお店を昭和初期まで現在の紀伊国屋金物店のある場所で営業されていました。

昭和中期には現在の三橋屋さんがある場所でおもちゃ屋さんとして営業。現在は

代が変わり定食屋さんとしてとても繁盛しているお店です。

④謎の「下通り5丁目」バス停

虎太郎さんんお話を伺っていると「下通り」という言葉が多く出てきました。

下通りって皆さんご存知ですか?実際に現在も現存している「下通り」名がこちら。

駒沢通り沿いの槍ヶ先の手前のバス停名が「下通り5丁目バス停」。虎太郎さんに

お話を伺ってみると驚きの事実を知る事になります。元々この駒沢通りは以前

「下通り(しもどおり)」と言われていた道で、町名にもなっていました。

昭和3年から昭和35年までは「渋谷区下通り」という地名だったそうで5丁目から

1丁目まで駅に近づくごとに連なっていました。恵比寿駅前が1丁目という事になります。

下通りがあれば中通りや上通りもあるはずですよね?実はありました。

下通→駒沢通り

恵比寿1・2丁目 広尾1・5丁目 東3丁目 恵比寿南1〜3丁目 恵比寿西1丁目

中通→並木橋の通り

渋谷2・3丁目 東1〜3丁目 広尾1丁目

上通→道玄坂

神宮前5丁目 渋谷1・2・4丁目 道玄坂1・2丁目 円山町 宇田川町 南平台町 神南1 神泉町

という町名に別れていたそうです。

恵比寿は「山手の下町」

今回虎太郎さんに恵比寿の歴史を色々とお聞きする中で一番感動したお話。

生まれも育ちも恵比寿の虎太郎さんが「恵比寿ってどんなところですか?」と

聞いた時に出た言葉が非常に印象的でした。

恵比寿はね山手の下町なんですよ

虎太郎さん
恵比寿はね、人情の街なんですよ。渋谷区の山手でもありますが心の底は下町の人情が溢れる街なんですね。新しい人たちもそんな恵比寿が好きになってもらいたいね。

古きを知り新しを知るという言葉がありますが、

「故きを温ねて、新しきを知れば、以って師と為るべし」という言葉のごとく

恵比寿という街はオシャレな街というイメージが先行しがちですが

古くから人情の街だったんだという事が再認識できました。

そして我々の代に現在来ています。どんな街にしていくか?どういう街であるべきか

とても参考になるインタビューでした。小林虎太郎さんありがとうございました。

地域フリーペーパー「ココカラ」は本日より恵比寿の各店で配布が開始されます。

もし「うちの店に置いてあげるよ!」と言ってくださるお店の方は

こちらまでご連絡ください!!

シェア・送る