写真提供 豊里友行 「東京ベクトル」豊里友行WEB写真展
今回写真を提供いただいた沖縄の写真家 豊里友行氏に感謝いたします。
豊里さんも以前恵比寿にお住まいだったようです。
当時の写真は「東京ベクトル」豊里友行WEB写真展でも拝見できます。
恵比寿東口の石畳を取材する中で恵比寿に古くからお住まいになられている
方々に取材を進めて行くうちに必ずぶち当たる話題がある。
「恵比寿駅前に屋台だしてたおゆきさんなら知ってるんじゃないかな?」
しかしおゆきさんは1999年帰らぬ人となっている。
この「おゆきさん」非常にユニークな方で彼女を愛するファンは非常に多かったそうです。
時は1980年初頭。霞町「クーリーズ・クリーク」、代官山「スワミ」、
青山「カイ」、三田「アダン」と、常に時代を象徴するバー、レストランを手がけて来た
川内一作さんもそんな「由紀子」の常連であり様々なエピソードをお持ちの方。
本日はそんな恵比寿でも伝説の屋台「由紀子」のお話を川内一作氏に聞いてきました。
取材開始は15時。編集者の私は「川内一作」という人間を以前から知っていた。
霞町(現西麻布)に有った伝説のBARクーリーズ・クリーク。
青山CAY。三田に有ったアダン。代官山のスワミ。現西麻布に有る新世界。
時代の最先端の常にリードしてきたカルチャースポットを
この川内一作という人間が作り出してきた。編集者の中では伝説の人。
緊張して昨夜から眠れずに14:55に取材場所に滑り込んだ。
お店の入口を見て声が詰まった。
伝説のお店「クーリーズクリーク」のロゴ。もしかして。。
霞町に有った「クーリーズクリーク」が現在白金高輪に復活していた。
そして壁一面に忌野清志郎の作品が飾られていた。
川内氏「あぁ。どうも。君がおゆきさんの話聞きたい人?」
とてもフランクなあいさつに豆鉄砲食らって先ほどの緊張も一瞬でほぐれてしまいました。
そして恵比寿にあった屋台「由紀子」の取材が始まりました。
「やっぱりお店ってその店に立つ人間の個性で決まるよね」
当時一作さんは1980年代初頭にずいぶん「由紀子」に行っていたそうです。
川内氏
おゆきさんはよく気の置けない仲間が集まると「19の春」っていう歌を歌ってくれた。何か物を作りながら歌ってたね。おゆきさんって山形出身なんだけどね。沖縄民謡なんだよ「19の春」って歌は。
屋台「由紀子」が出来たのは定かではない。
女将のおゆきさんは山形出身でガーデンプレイス・恵比寿駅前の改築が始まるまで屋台をやっていた。そして1999年1月26日築地に仕入れに行く途中に交通事故でこの世を去っている。
川内氏
当時の恵比寿は何にもなかったな。どちらかというと小汚かった。
その当時は代官山・西麻布がバブルの最初の頃で栄えていていろんな店があった。
今の恵比寿を見ると想像できないかもしれないけど下町だね。恵比寿は。
1980年、現在ある恵比寿ガーデンプレイスはまだ恵比寿ビール工場の時、現在のアトレおよび恵比寿駅はまだ古い駅舎だったそうでそんな恵比寿駅の真横に屋台「由紀子」は有ったそうです。
川内氏
丁度今のサンクスの横の銀行(三菱銀行)の前あたりに「由紀子」があったんだよ。
屋台は丁度5~6人座れれば良いようなお店なんだけどドンドン屋台にお客が来れば
勝手にビールのケースを机に外で飲むのがスタイルだった。多い時だと2~30人外で飲んでた。
今では全然想像もつきませんが当時恵比寿東口を降りたサンクスの前はちょっとした広場だったそうでそこを利用しておゆきさんが「由紀子」という屋台を始めたそうです。
川内氏
お店の横に公衆電話があったんだよ。
そこに夜中になると電話がかかってくるんだよ。
するとさ、おゆきさんが電話に出るんだよ「はい由紀子です」って(笑)
当時は携帯電話も無い時代だから予約するのはこの公衆電話。
公共の電話なのに「はい由紀子です」ってホントおもしろいよな。
話はどんどんお店の話へ
川内氏
「由紀子」は夜中の3時に開くんだよ。お昼じゃないよ朝方の3時。遅い時だと4時に開いたりしててね。当時の飲食をやっていたやつだったり銀座からお姉さま達がお店が終わればお店めがけて駆けつけてた。よく昼まで通勤中の人を眺めながら飲んでた記憶があるね。みんな飲食店や夜の店が終わって閉めたころはにはふつうお店なんてあいちゃしない。その当時でも夜中やってる店は有ったけど何故かおゆきさんの所に来ては昼まで飲んでたね。飯もうまかった。鯨のステーキ・コロッケ・キーマカレーとナン。メニューにさ「鮎の笹焼き」ってのもあるんだけど「はい。愛のささやき」なんてサムイ冗談言ってたな。当時としてはポップな屋台だったと思うよ。来てるやつらも面白いやつばかりで。
今日はこの辺でつづきは次回。