65年の時を経て恵比寿に再び降臨した梅村家の美人5姉妹

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令和に突入して初めての第1記事目。

これからは「みんなでつくる恵比寿新聞」

という事で多様な記者の方々に寄稿して頂き

色んな視点から恵比寿を紹介していきます。

今回の記者はインタビュアーとして活躍し

著書「わたしをひらくしごと」でも

ご活躍中の野村美丘さんの記事です。

なんと美丘さんのルーツが恵比寿にあったなんて。。

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文:野村美丘(photopicnic)

きっかけは一葉の写真だった。幼きころの私の母とその姉(私の伯母)たち4人、そしてその母(私の祖母)の集合ポートレイトは当時、恵比寿にあった自宅の前で、祖父が撮影したものだという。
梅村一家が伊達町(現・恵比寿3丁目)に越してきたのは昭和29年。長女は高校2年生、末っ子は小学1年生だった5人姉妹は、82歳から72歳になったいまでもしょっちゅう集まっては、旅行したりお茶をしたりと、賑やかな仲良しだ。写真を見せてもらったのは、そうしたよくある伯母たちの会合に私も加わり、伯母の家に遊びにいったときのこと。
祖父と祖母はすでに他界しているが、姉妹が5人とも健在のうえ、すぐに集まれる状況にあるというのは、じつはけっこうレアケースなのではないだろうか? そうだ、それなら恵比寿新聞で、当時のこの界隈の話をしてもらおう──。そんな単純な思いつきから始まった梅村姉妹会合の、特別編です。

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姦しいより2人多い

恵比寿新聞
今日はお集まりいただきありがとうございます。まずは自己紹介をお願いできますか。

協子(1)
長女の協子です。昭和12年生まれの満82歳。目をちょっと悪くしたものですから、申し訳ないけれどサングラスをかけさせてもらっています。これが一応、トレードマークになっています(笑)。

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慶子(2)
次女の慶子です。昭和16年生まれで、私たちは双子なんです。

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悠子(3)
二卵性なのであまり似てないんですけど。3女の悠子です。

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恵比寿新聞
慶子(2)さんと、悠子(3)さん。

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悠子(3)
そう、UK(笑)。

慶子(2)
同い年のザ・ピーナッツにあやかって、落花生って言ってます(笑)。

恵比寿新聞
ザ・ピーナッツも戦後、おふたりで広尾1丁目に住んでらっしゃったんですよ。

登志美(4)
昭和18年生まれ、4女の登志美です。男でも女でもいいようにと生まれる前から名前が決まっていました。父は男の子を欲しがっていたんですが、待望の女の子が生まれてきちゃって(笑)。

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紀子(5)
それで、私で諦めたのよ(笑)。5女で末っ子の紀子です。昭和22年生まれです。

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社宅はお屋敷

恵比寿新聞
この写真は、当時のご自宅の前で撮影されたものなんですね?

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登志美(4)
伊達町にあった東京電力の社宅です。弘重病院の前にありました。

協子(1)
65年前の話よ(笑)!

紀子(5)
越してきてすぐじゃない? 昭和29年かしら。私が加計塚小学校の1年生で。

登志美(4)
私は5年生。

慶子(2)
私たちは広尾中学に、

悠子(3)
2年生の秋から通っていました。

恵比寿新聞
じつは僕の奥さんの地元も伊達でして。

紀子(5)
私たちは94番地よ。

恵比寿新聞
そうなんですね(このあと両家が非常に近所だったこと、とくに奥さんの母と紀子(5)さんはどうやら一緒に遊んでいたらしいことが判明)! ところで、恵比寿に引っ越してきた理由は?

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悠子(3)
父の転勤です。

紀子(5)
東京電力に勤めていて、いわゆる転勤族でした。

協子(1)
私は小学校を4つも変わってますからね。父は本社採用だったから、支店にあちこち飛ばされるわけ。で、恵比寿に越してきたのは、静岡の沼津から東京本社に戻ったときですね。

紀子(5)
昭和28年ごろ。

悠子(3)
ちょうどそのころ、東京タワーが建設中だった。

協子(1)
恵比寿に越したとき、私は高校があと1年あったので、ひとりで沼津に残って下宿してたんですよ。だから、みんなに比べて恵比寿のことはあんまり知らないの。

悠子(3)
お姉さん(1)がいちばん大変だったわよねえ。

紀子(5)
伊達はすごく坂が多いお屋敷街で。うちは木造総二階の大きい家でね。それをいくつかの所帯で住み分けてたの。

慶子(2)
上が2所帯、下が2所帯。確かお風呂はひとつしかなかった。トイレもふたつしかなかった。

悠子(3)
和式だけど、水洗でした。お庭がすごかったね。テニスをやった覚えがある。

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慶子(2)
泳げるほどの広さの池があった。お隣の敷地にまたがっていて、塀で仕切られていて。

紀子(5)
だけど水が入ってなかったから、塀の下をくぐって隣のお屋敷に行けたのよ(笑)。坂の下には髭の殿下のおうちがあったじゃない?

恵比寿新聞
三笠宮様ですね。

紀子(5)
そうそう! 当時、小学生で。学習院の制服を着て、運転手つきの黒塗りのクルマで通学するのを塀越しに見てたよ。

悠子(3)
へえ、全然知らない。

紀子(5)
このあたりは武家屋敷があったんですよね?

恵比寿新聞
宇和島藩伊達家の下屋敷があったんです。

登志美(4)
近くに駐留軍がありましたよね。

恵比寿新聞
はい。いまは防衛省の敷地になってます。

登志美(4)
うちの向かいに進駐軍の家族が住んでて、そこの子とよく遊んでたんです。そのおうちで初めてコカ・コーラを飲んで。薬くさくて、なんだこんなの!って思ってさ。ぶどうジュースを初めて見たのもそのおうちでだったなー。紫色の、初めて見る飲み物の色。

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悠子(3)
あの子たちとも遊んだよねえ。

慶子(2)
メイシー、ボーリブラ、ショーリの3姉妹ね。

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登志美(4)
沖縄に引っ越しちゃったのよね。

恵比寿新聞
あそこは米軍とシェアしていたオーストラリア駐屯地だったんですが、駐屯地の人が近所に住んでいたというのは意外にめずらしい話なんです。駐屯地の外国人が昔近所に住んでいたと私の義母が言ってましたけど、まさにこのご家族のことじゃないでしょうか。

仕舞屋ばかりの寂しい町

協子(1)
恵比寿駅の改札口は当時、2階にあったんですね。木造の駅舎で階段も木製だから、靴音がすごかった。東側は店が1軒もなくて、仕舞屋ばかりで。

恵比寿新聞
しもたや?

協子(1)
あらまあ、わからないんだ。普通の家のこと。平屋の1軒屋がほとんどだったの。2階建ての家は、私がうちまで帰る間にほんの数軒しかなかった。

恵比寿新聞
昭和28~29年ですよね。昭和20年5月、恵比寿2丁目に焼夷弾が落ちたんです。伊達も含めて、このあたりは全部焼けました。だから平屋ばかりというのはすごくイメージがつきます。突貫でつくった家が多かったと思うので。道の整備なんかはどうでした?

登志美(4)
道は狭かったですね。

紀子(5)
でも舗装はされてたよね。

協子(1)
駅前からの大通りが1車線ずつしかなかった。それ以外は全部細い道よ。

登志美(4)
都電が通ってなかった?

慶子(2)
天現寺から。

紀子(5)
へえ、よく覚えてるねえ。

慶子(2)、悠子(3)
だって、私たちは広尾中学に通ってたから。

協子(1)
ヱビスビールの工場の引き込み線も稼働してた。

登志美(4)
工場の高い塀沿いの道が真っ暗で、通るのがすごい怖かった。

協子(1)
夜は近道を使わずに大きい道を通って帰ってきなさいって母から言われていました。帰りが遅くなる日には、大通りから路地に入るところまで母が迎えに出てくれていて。いまとなっては嘘みたいだけど、東側はとくに、本当に寂しい町だったわよ。

悠子(3)
私、学校帰りに駅前の街頭テレビで力道山のプロレスなんかをよく見てた。

恵比寿新聞
西口に街頭テレビがあったんですよね。

協子(1)
西口のほうはお店がありましたね。ロータリーの向こうに商店があって、右側には私が通っていた美容院があったり、ラーメン屋さんがあったり。それから線路沿いの通りのほうには映画館があって。

登志美(4)
その映画館、私のお友だちのお父さんが経営してた。

協子(1)
あら、本当!

恵比寿新聞
ギンエイ座じゃないですか?

協子(1)
たぶんそう!

登志美(4)
昔、慶ちゃん(2)とふたりで映画を観にいったときに、チケット代が10円足りなかったの。そしたら受付の人が、今日はいいからって。

慶子(2)
えー、何を観たっけ?

登志美(4)
それは覚えてないんだけど。

恵比寿新聞
実際、子どもたちを無料で入れてあげることもあったようですよ。いまそこは〈ピーコックストア〉というスーパーになってるんですが、入り口から地下に降りていくという、映画館の構造はそのままなんです。

悠子(3)
映画はよく行ったじゃない?

紀子(5)
母が好きだったからね。

悠子(3)
よく連れていってくれましたね。

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線路脇のぺんぺん草

紀子(5)
写真を見てると、この時代のファッションも懐かしいね。

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悠子(3)
みんな母の手づくりで。

慶子(2)
母さんはすごいモダンな人でね、私たちはいつもきれいな格好をしてた。だから同窓会なんかあると、あなたいつもかわいい格好してたわねって羨ましがられて。

登志美(4)
近所の松本さんにもよく洋服をつくってもらってたよね。

恵比寿新聞
そうなんですか! 松本さんのおばさんが服をつくっていたなんて全然知りませんでした。

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協子(1)
松本さんにつくってもらう洋服の布を買いに、渋谷まで行ってたの。いまの〈109〉があるあたりは布屋さんが並んでて。余談だけど、私が結婚するときも渋谷で生地を揃えて、松本さんにお願いしてつくってもらったんですよ。映画でオードリー・ヘップバーンが着てた服を真似てつくってもらったり。『Seventeen』っていうアメリカの雑誌を取り寄せて、ファッションページを見せて、こういうのをつくってってお願いしたりね。

悠子(3)
ブラウスからスカートから、なんでもつくってもらってたんだから、すごいわよねえ。

協子(1)
5人分だから、ひっきりなしにお願いしてたよね。私は学校で洋裁の宿題があったとき、うまくできなくて頼みにいったことがある(笑)。

登志美(4)
ルイ・ヴィトンのバッグが広告に載ってたのを覚えてる。あとからヴィトンっていうのを知ったんだけど、めずらしくてね。

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協子(1)
恵比寿には本屋さんがなかったから、そういう雑誌は渋谷の〈西村フルーツパーラー〉の前にあった本屋さんで買ってたのよ。恋文横丁では50円でチャーハンが食べられて、ラーメンが30円っていう時代。コーヒーのほうが高くて、1杯50円。あのへんは喫茶店か布屋さんくらいしかイメージがない。あと映画館も。いまの〈西武〉があるところは映画館が並んでたんですよね。

恵比寿新聞
渋谷にはどうやって行っていたんですか?

登志美(4)
線路沿いをずっと歩いていく。中学校のころはお金がないから、東横までよく歩いてたなあ。

恵比寿新聞
渋谷と恵比寿の間には何かあったんですか?

協子(1)、慶子(2)、悠子(3)
なーんにも、ない!

協子(1)
この写真のように、線路脇にぺんぺん草が生えてる感じよ。

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悠子(3)
だから、渋谷まで出ないと何もなかった。

協子(1)
渋谷にはデパートもあったしね。いま〈ヒカリエ〉になっているところはプラネタリウムで、その建物のなかにも映画館がたくさんあって。地下は〈10円ニュース館〉っていって、ニュースだけを流す映画館があったの。昔はテレビがなかったからねえ。

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あの場所へもう一度
ひとしきり話したあとは、元・伊達町をあらためてみんなで歩いてみた。昭和30年以前の建物はほぼ残っておらず、町の姿は当時とはまるで変わっている。と、路上で偶然、伊達町会の町会長の立田さんに遭遇。立田会長と協子(1)さんは同い年で、奇しくも5人きょうだいの長男と長女同士。直接の知り合いではなかったが、共通の話題はもちろんたっぷりある。伊達の昔話にしばし花を咲かせ、タイムスリップの感だった。

紀子(5)
坂が多いっていうのがすごく特徴的だから、地形で覚えてるんですね。町並みは変わったけれど、おかげで当時の様子を鮮明に思い出しました。

協子(1
私たち、しょっちゅう集まってるけど、こんなに古い話はしたことがなかったね。

登志美(4)
いつもくだらない話で終わっちゃうから、今日は有意義だわ(笑)。

5姉妹が住んでいた94番地には現在、マンションが建っている。もはや他人の住まいの前ながら、今日の記念に65年前と同じシチュエーションで写真を撮った。ともに生活したあと、順番に巣立っていき、それぞれに別の暮らしを立て、いままた同じ場所に集合した。変わるものがあって、変わらないものがあって。当たり前のことだけれど、たった一枚の写真から想起する物語は、無限に広がっていく。

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