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連続時代小説「恵太の物語」第二話「お母さん」


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第一話「ビール坂」はこちら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

作:伊達みなみ
※この物語はフィクションです。登場人物や店の名前は架空のものです。
※恵比寿の町を舞台にしていますが、町並みや建物の構造などをそのまま再現したものではありません。

「そんなに走って飛び出すんじゃないよ。車にひかれちゃうよ」
通用門を出てすぐ左にある乾物屋のおばあさんの怒鳴り声を聞きながら、恵太は坂を一気に駆け下りた。
坂を降りきると煙草屋と材木屋が向かい合ったところで、ビール坂は狭いバス通りにぶつかる。
その手前「鉄火肌の安さん」と呼ばれている魚屋の手前で恵太はとっておきの近道に突入した。それは大工の松坂組の玄関横から、青葉湯の薪置き場の裏手に通じる、細い、それこそ猫が通るのもやっとのような隙間だった。ランドセルと体育着の袋を頭の上にかついで、横歩きをしながら抜けると、もうそこは青葉湯の作業場だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

薪割りをしていた窯焚きの遠蔵さんが恵太に気づき「あ、こら。そこは薪が崩れたら危ねえって、何度言ったらわかるんだ」と怒鳴ったが、すでに恵太の姿は男湯の窓の下を通って表玄関のほうに消えていた。
青葉湯のはす向かいが恵太の家。昔は、亡くなったおじいさんが雑貨屋を商っていたのをお父さんが継いだ。もともと勤め人だったお父さんはあまり乗り気でなく家業を継いだから、お母さんに言わせると「身が入らない」そうで、今日も店先に姿はなかった。
「ただいま、お母さんは?」
夏風邪をひいて今日は学校を休んでいたお姉ちゃんの志津子が「恵太って、いつも、ただいまと、お母さんは、を一緒に言うよね」とからかう。いつもならそこで座っている足の小指を踏むくらいの仕返しはするけれど、今日はそんな暇はない。
「ねえったら、お母さんは」
「うるさいな、裏で洗濯物をとりこんでるよ」
台所の開け放した勝手口からお母さんの白いサロン前掛けの端っこが少しだけ見えた。
「お母さん、お母さんったら」
「あら、お帰り。早かったね。おかずは赤田の肉屋のコロッケだけどいい?今、これだけとりこんだら用意してやるからね」
「ごはんはあとでいいったら」
「あれ、お姉ちゃんの風邪、うつっちゃったかな。食べたくない」
「そうじゃなくて、お願いがあるの」
「それは、だめ。あんたのお願いなんてろくなもんじゃないんだから。プラモデルは誕生日って約束したよね」
「そうじゃなくてさ、仔犬、もらってきていい」
「ほーら、始まった。誰が世話するの。金魚の世話もろくにできないくせに。そこの木の下を見てご覧よ。あんたの作った虫やら金魚やらのお墓ばっかりだから。知らないからね、化けてでるよ、そのうち」
「絶対世話するから。すごくかわいいんだから、茶色くてね、足のところだけ白いの」
「お母さん、犬は絶対いやなの。昔、仔犬を飼っていてね、一番可愛いときにジステンパーで死んじゃったんだよ。だから生き物はいや、必ず死ぬからね」
「死なないよ、僕が面倒見るもん」
「駄目なものは駄目。さーてと」
お母さんは恵太に背中を向けると、洗濯物をわんさかと両腕に抱えて恵太の前を通りぬけ、茶の間に行ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねえったら、ねえ。だってね、僕がもらわないとね、学校に入ってきちゃったから保健所へ連れて行くんだって」
あっちを向いてテレビのデン助劇場を見ていた志津子が、その言葉にびくりとして振り向いて言った。
「保健所?殺されちゃうの」
「そうだよ」
答えたとたんに涙がこみ上げた。
「お母さん、殺されちゃうんだってさ」
志津子がお母さんのサロン前掛けにしがみついた。お姉ちゃんだから味方をしてくれたというよりは、自分も仔犬が欲しくなったのだろう、と恵太は思った。
「そんなことないわよ、誰かがもらうわよ、学校なら先生たちだっているでしょ」
お母さんは冷たい。
「それが誰もいないから、用務員さんがもう自転車の箱に入れて出て行くところだったんだよ」
恵太は嘘をついた。
本格的に泣き出したのは志津子のほうが先だった。恵太はちょっとたじろいだ。
「お母さん、バカな恵太じゃなくて、志津子が面倒を見るよ、だったらいいでしょ」
志津子はお母さんのサロン前掛けを雑巾のようにねじり上げてぶんぶん振っている。
「志津子、六年生にもなってあんたこそバカ言ってるんじゃないわよ。怒るわよ、いい加減にしなさいよ」
「絶対に世話するから。そうだ、志津子の誕生日、タミーちゃんのドレスセット、いらないから」
恵太はどきっとした。「僕もプラモデルいらない」つい口がすべった。
お母さんは台所に戻り、無言で朝の残りの味噌汁を温めながら鍋をかき回して中の具を確かめていたが、火を止めると
「とにかく駄目なものは駄目。早くご飯、食べちゃいなさい」
そう言ってまた勝手口から外に出て、残りの洗濯物をとりこみ始めてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「恵太」
柱の向こうの階段の陰から、志津子が小声で呼んでいる。
だらしなくパジャマを着ていたのに、いつの間にか白地に赤と紺の水玉のワンピースに着替えていた。
「学校に行こう。犬、迎えに」
「ええ、だって怒られちゃうよ、それに太ったほうのおばさん、お母さんが良いって言わなかったら駄目だって言ってたもん」
「そんなの二年生の恵太だからだよ。六年生のお姉ちゃんが行けば大丈夫に決まってるじゃない」
決まってはいないと思うが、恵太一人よりはましだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二人はかなり久しぶりに手をつないでビール坂を駆け上がった。さっき食べたコロッケの赤田肉屋のおじさんが「お、暑いのに元気いいな、坊主」と店の前に水を撒きながら声をかけてくれた。乾物屋のおばあさんの姿は通りにもうなくて「うるさく言われないでよかった」と恵太は思った。
通用門も裏門もすでにカンヌキがかかっており、校門の横の小さな出入り口がかろうじて
石で押さえて開けてあった。
校庭を突っ切って用務員室に駆け込むと、二時をもう三十分も過ぎているのに、榊さんと村田さんが思案顔で畳の上に座っていた。
「おばさん、犬は?」
「ああ、さっきの二年生。飼い手がみつからないからねえ」
といって土間の隅を目で追う。子犬はとりあえず榊さんが新聞紙や古い紙を縛る細い縄で柱につながれて、ひんやりとした土間で気持ちよさそうに寝ていた。
「このまま保健所っていうのも偲びなくてね。少ししたらビール坂の商店街の人にでも聞いてみるよ」
「うちのお母さんが、いいって言ったんです」
志津子が、これでもか、というくらい胸をはって言った。
榊さんと太ったほうのおばさん、村田さんは顔を見合わせているが、すぐに返事をしない。
「大丈夫なんです、去年までうち、スピッツ飼っていたんです。死んじゃってお母さんも淋しいって言ってたし、そのまま犬小屋もまだあるし」
よく嘘がぺらぺらと出てくると恵太は唖然としていた。
「そのスピッツは、お母さんがすごく可愛がっていたのにジステンパーで死んじゃったから、お母さんも良かったわ、新しい犬が来てって」
「よく言うよ」と恵太は心の中でつぶやいたが、志津子の嘘が通ってくれるならそのほうがいいから黙っていた。
「本当に大丈夫なの」
村田さんが念をおす。
「お母さん喜んでます。また可愛い仔犬が飼えるのねって」
「それならいいけど」
「あ、僕、連れていけます」
村田さんの気が変わらないうちに、恵太は仔犬が繋がれている縄を柱からはずすと、片方の端をぎゅっとにぎった。
「大丈夫ですから、可愛がりますから」
「ありがとうございました。行こう、恵太」
後ろを振り向かないで一目散に二人と一匹は正門へ走った。

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