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第八回 恵比寿な人たち エビス瓦工業株式会社 斉藤”神谷”ツユ子さん

恵比寿新聞とサッポロホールディングスとフリーペーパーココカラで

連載している「恵比寿の記憶を記録に」を合言葉に既に変わってしまった

恵比寿の戦前戦後の面影や風景を記録する企画「恵比寿な人たち」第八回目です。

実は今から3年前の夏に恵比寿東口の坂道が石畳になっている謎を追うため

様々な恵比寿の住民の方に聞き込みするも当時から住んでいらっしゃる方が

なかなか見つからず途方に暮れていた時にこの謎を知ってらっしゃる方が

いるという事でお話を伺った「エビス瓦工業株式会社」の斉藤”神谷”ツユ子さん。

お話は恵比寿新聞が想像しているものと違う意外な結果とこの恵比寿東口

の様々なストーリーをお聞きし驚いたのが記憶に新しいです。

 

今回は戦後間もない恵比寿の風景やお話を再びお聞きすることになりました。

我々が知らない「昔の恵比寿」を今回ツユ子さんの証言から振り返ってみたいと

思います。貴重なお写真と共に今はなき恵比寿の昔の風景を見ていきましょう。

その前にツユ子さんの話

ツユ子さんがこの恵比寿の地に降り立ったのは生まれて間もなく。

生まれは愛知県高浜市。高浜と言えば三州瓦が有名な町でもあり

ツユ子さんのご実家は瓦の窯元でもありました。戦後復興の最中

建材が不足している時期、ツユ子さん生後3ヵ月の時にこの恵比寿の

地に降り立ち、お父様が瓦販売業を行なう事となりました。

ツユ子さん
元々は恵比寿とは違う地域が候補地としてあがっていたらしいんですが、立地・値段・貨物駅(恵比寿駅)がすぐにあるという事が条件として当てはまってこの恵比寿に営業所をかまえることになったんですよ。

恵比寿新聞
そもそもサッポロビールの貨物駅としてあった恵比寿駅が瓦を運ぶ為にも適していたという事ですね。

ツユ子さん
そうなんですよ。そもそも瓦は重い物ですので貨物で運ぶのが一番だったんです。サッポロさんが恵比寿にビール工場を開いていないとうちは別の所で瓦屋さんをやっていたかもしれないわね。当時はサッポロビールの貨物量よりも瓦のほうが多かった時期もあったそうですよ。

何もないけど子供はたくさん

恵比寿新聞
当時、物心ついたころの恵比寿の記憶ってありますか?

ツユ子さん
そうねぇ。本当にこの辺は何もなかったのよ。空き地だらけ。ちょっと歩けば工場が沢山あって高い高層の建物なんてなかったのよ。もう67年ここに住んでいるけど昔恵比寿1丁目の5差路の近くに靴屋さんがあったことぐらいしか覚えていないですね。でも何もないのに子供はたくさんいた記憶はありますよ。

恵比寿新聞
この写真も紙芝居が来た時の写真だと思うんですが子供が沢山いますね。

ツユ子さん
この写真の左から三番目(前列左から二番目)が私です。ここにいる子供たちの中で恵比寿にいる方が何人いらっしゃるか。

丁度ツユ子さんがこちらに越されてきたときが昭和22年。

今までの恵比寿な人たちの証言者の方から聞くところの昭和22年は

昭和20年の空襲後の復興時期。やおさくのお父さんの話ではやおさくから駅に

入っていく貨物が見えるほど建物が建ってなかった時期とかぶります。

以前恵比寿な人たちに登場していただいた

小林虎太郎さん松下義男さんの証言でもこの時期は恵比寿駅前が

バラック小屋の闇市が沢山有ったというお話を聞いています。

ツユ子さんの写真から恵比寿を振り返る

こちらも貴重なお写真ですが、場所は恵比寿西口のロータリー付近で撮った写真。

時代背景で言うと昭和30年初頭かと思います。

下の写真は昭和36年当時の写真。恵比寿新聞のアーカイブにもありました。

昭和30年代前半の写真から見るとすでにこのヤシの木が無くなっているのがわかります。

下の写真は現在の恵比寿駅。すこし面影が残っていますね。

しかも木が育っていることには驚きです。こんなに大きくなるんですね。

昭和20年5月24日の空襲で恵比寿駅は全焼。その後立て壊し復興を重ね

今の駅になるまでに合計で4回のリニューアルを重ねてできた現在の駅。

そして復興を支えた「恵比寿駅前盆踊り」こちらは昭和29年当時の写真。

空襲ですべて焼けてしまった恵比寿には娯楽が無く当時の町会の皆さんが

手を取り合ってこの恵比寿駅前での盆踊りが開催されたとお聞きしています。

恵比寿が変わり始めた切っ掛け

ツユ子さん
なんの写真だか忘れてしまいましたけど多分盆踊りかな?当時の恵比寿駅前、特に東口は色んな実のなった木があってね。駅の人かどなたが大切に手入れされていたんですよ。今はもうそんな面影もないんですが。

恵比寿新聞
こんなに変わり始めたのっていつぐらいなんでしょうか?

ツユ子さん
やっぱり20年前のガーデンプレイスができてから恵比寿は大きく変わったと思いますよ。


※娘さんと息子さんとサッポロビール工場にて

当時のことを調べてみた。今から20年前の1995年恵比寿ガーデンプレイスが開園。

サッポロビール工場であった敷地が人が集まるランドマークへと大変身。

同時にウェスティンホテル東京もOPEN。その後1997年恵比寿駅改装と同時に

アトレがOPEN。これを切っ掛けに恵比寿では新しい開発が始まり現在のような

マンション・飲食店が立ち並び企業が本社を多く置く発展的な街へと変貌していった。

とは言え下町は下町

新しい開発の波で元々恵比寿に住んでいた方たちは郊外へ引っ越す事が多くなった。

しかし恵比寿に残り続けている方たちも多く、そんな新しい街へと変貌する傍ら

昔と変わらず「下町人情気質」が色濃く残る街、それが「恵比寿」だと思う。

周りは高層マンション立ち並ぶハイソな街のイメージだけど今でも隣三軒両隣

泥臭いながらも人情でつながった人のつながりの強い街なんです。

夏になれば氷川神社例大祭の為に地元の方々が集まり昔と変わらずやっている。

新しく恵比寿の街に住んでいる方たちはこういうコミュニティーに入っているのか

ここはこれからの課題ではあると思いますがいつでもウェルカムで恵比寿の人は暖かいんです。

ツユ子さん
うちの娘も毎年氷川様の祭りになると目の色変えて一生懸命頑張ってるわね(笑)そういう人も少なくなっていることは残念だけどね。

 

現在都市部の地域の課題は「近所づきあい」だったり「地域コミュニティーの減少」

だと思う。当たり前ですが引っ越してきたすぐに街のコミュニティーがどこであるか

インフォメーションもなければそんな物がある事すら知らない方が多い。

しかし、近隣のコミュニケーションが取れていない事で問題になるのは

治安の問題もありますが、昨今騒がれている「地震」などの有事の際に

地域コミュニティーの中で助け合えるか?という大きな問題に直面しています。

しかし近所づきあいは面倒だし何か紛争が起こるのもこんな「近所づきあい」から。

できるだけ事なかれに。できるだけそういう物には参加しないように

どんどんと孤立主義・個人主義の時代へと加速しているように思えます。

「お祭り」という人と人の接着剤

そんな新しく発展する街の中でも人と人を繋ぐ素晴らしい活動があります。

それは「お祭り」です。神輿祭りとなる「氷川神社例大祭」では各地域の祭礼会が

軸となりあんなに重い神輿を皆の力で担ぎ上げ、祭りが終わるころには担いだ仲間同士が

深いつながりで繋がっている、そんな「人と人との接着剤」だと思います。

このような「祭り」を守り続けている方たちに心から賛辞をお贈りしたいです。

そしてもっともっと恵比寿に住む人たちがこのような活動に参加し恵比寿の人達が

つながる事で笑顔の絶えない街になっていくことを望んでいます。もう笑顔だらけですが。

そう思えたのもこのような「恵比寿な人たち」という先輩方から昔の戦争の悲惨さや

今やもう面影のない恵比寿の風景・人とのつながりを聞くことで思えました。

振り返る事で新しい未来が見えてくる。皆さんも近所づきあいしていますか?

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